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ナイロン100℃「睾丸」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
ナイロン「睾丸」.jpg
結成25周年の記念公演として、
ナイロン100℃の新作「睾丸」が今上演されています。

これはナイロン100℃が旗揚げした、
1993年を舞台にして、
45歳の2人の男と1人の女性が、
25年前の1968年に、
自分達がのめりこんでいた、
学生運動の時代を振り返る、
という趣向の作品で、
3人のリーダーであった七ツ森という先輩が、
1968年に自動車事故で植物人間となり、
25年ぶりにその訃報が届く、
というところから物語は始まります。

学生運動の時代は、
アングラ演劇の1つのピークでもありましたから、
それと現代とを対比させたようなお芝居は、
これまでにも結構ありました。
たとえば鴻上尚史さんの以前の戯曲では、
学生運動の闘士が長い昏睡状態から目覚めて…
というような今回のお芝居と良く似た設定の作品がありました。

ただ、今回の作品はそうした、
ある種のノスタルジーや鎮魂と言った雰囲気に彩られたものではなく、
徹底して怜悧な筆さばきで、
過去の自分とどう向き合い、
どう落とし前を付けるべきか、
というより普遍的なテーマを、
徹底して追及した「論理の芝居」で、
サム・シェパード辺りのアメリカ演劇のドライさにも似て、
ケラさんの新たな挑戦として、
これまでのナイロン100℃の芝居とは、
完全に一線を画した、異なる肌触りの作品です。

前半1時間半、後半1時間半にきっちり分かれて、
間に10分間の休憩をはさんだ構成ですが、
特に後半待たれていた予期せぬ主人公が、
舞台に登場する辺りからの緊張感の高まりと、
その後の緻密かつドラマチックな展開が圧巻で、
ラスト1時間は小劇場でも稀に見る、
濃密な緊張感と戦慄とに舞台は包まれました。

ケラさんのこれまでの舞台は、
シリアスなスタイルのものでも、
すかしのような間や遊びがあり、
コミカルな場面などもあって、
全編計算されつくした幾何学のような作品は、
あまりなかったと思うのですが、
今回の作品はほぼ全編が、
計算されつくした人間のぶつかり合いに終始し、
遊びはほぼ皆無という結晶体のような芝居になっていました。

セットは全編変化はしませんが、
平凡な洋風日本家屋の1階の中に、
具象と抽象とを巧みに組み合わせ、
壁の浸みや屋根の亀裂に時空の狭間を感じさせながらも、
トータルに確固たる存在感を感じさせる見事なもので、
上手前方に縁側と庭のスペースを取って、
そこをメインで1968年を展開させ、
その時空の変化を、
窓ガラスに映る赤と青のライトでコントールする、
という発想もなかなか効果的です。
この辺り唐先生のテント照明のスタイルを、
換骨奪胎した趣向が成功しています。
基本的に抑制された音響と照明の効果も良く、
いつものやや濫用に感じたプロジェクション・マッピングを、
舞台が黒塗りになる場面の1回しか使用せず、
オープニングの映像も、
ガリ版のアジビラのような趣向で処理しています。

役者も新劇などを遙かに超えるリアリズムと、
それを突き抜けたシュールさを兼ね備えた、
ナイロンならではの充実した役者陣で隙がなく、
3人のメインキャストに、
みのすけさん、三宅弘城さん、坂井真紀さんを配して、
特に坂井さんが演じる、
人生で決断に誤ってばかりいる痛いヒロインは、
彼女ならではという感がありました。
また作品の肝となる主人公達のリーダーを演じた、
イキウメでお馴染みの安井順平さんの、
彼でしか出せない「不気味さ」が、
作品の核も部分を支えて見応えがありました。

作品の内容は観る人によって様々な感じ方があると思います。
僕自身はある世代に対する強い不信と悪意とを強く感じましたが、
多分その世代の方が観れば、
自分達を肯定したような見方をする筈で、
この作品は様々な見方を受け入れるような、
懐の深さを持っていると思います。
ケラさんは個人的な心情や考え方とは別に、
創作においては独自の自由さを持っていて、
それが広く支持される理由であるように感じました。

そんな訳で今回はケラさんの作品の中でも、
意欲作で新傾向であると共に、
完成度の高い傑作で、
小劇場演劇の醍醐味を心ゆくまで味わえる名品として、
全ての演劇ファンの方に自信を持ってお勧めしたいと思います。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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ジョンソン&ジャクソン「ニューレッスン」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は土曜日で午前午後とも石田医師が外来を担当します。
受診予定の方はご注意下さい。

今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
ジョンソン&ジャクソン.jpg
ナイロン100℃の大倉孝二さんと、
ブルー&スカイさんがタッグを組み、
「馬鹿馬鹿しい芝居」を追求するというユニット、
ジョンソン&ジャクソンの新作公演に足を運びました。

今回は大倉孝二、ブルー&スカイに加えて、
比較的常連の池谷のぶえさんと、
いとうせいこうさん、小園茉奈さんが参加しています。

このシリーズは何本か観ているのですが、
部分的には面白いギャグや場面があるものの、
トータルには単調で退屈な場面も多いという印象でした。
場面場面に馬鹿馬鹿しさやシュールさはあるのですが、
意外に起承転結のある物語的展開があって、
それが予定調和的になってしまうので、
部分部分のシュールさが、
却って展開をスローにしてしまう感じがあるのです。

今回の作品はブルー&スカイさんのカラーが、
かなりくっきり出た感じの作品になっていて、
昔の演劇弁当猫ニャーのような雰囲気です。
得体の知れない金持ちの道楽に、
インテリや貧乏人が巻き込まれるという、
お馴染みのパターンなのですが、
「書き割りの熊の腸を掃除する」というのが素敵で、
それが1本物語に芯を通した、
という感じがします。

途中は矢張り少し退屈で、
ウトウトしたりもしましたが、
なかなか素敵な「馬鹿馬鹿しい芝居」に、
なっていたと思います。
時事ネタなど何もないのが良いですね。

役者ではちょっとほっそりされたのは残念な池谷のぶえさんが、
いつもの愛らしくて抱きしめたくなるような「おじさん」を含めて、
八面六臂の活躍で楽しめました。
彼女は猫ニャーの看板でしたが、
ブルー&スカイさんの演出で、
最も真価が発揮されるタイプの女優さんだと、
改めて思いました。
昔を思い出していたのかも知れませんね。

そんな訳で抜群とは言えませんが、
まずまず楽しめた作品でした。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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庭劇団ペニノ「蛸入道忘却ノ儀」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は土曜日で午前午後とも石原が外来を担当する予定です。

土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
ペニノ蛸入道.jpg
異常なほど緻密な完成度の装置や美術と、
常人には理解不能の奇怪な物語で、
唯一無二の世界を紡いでいる庭劇団ペニノが、
3年ぶりの完全新作公演を森下スタジオで上演しています。

その長塚圭史さんとの対談付きの試演会に、
足を運びました。

以下内容のネタバレがありますので、
鑑賞予定の方は鑑賞後にお読み下さい。

森下スタジオの大きなスタジオの中に、
例によって極めて緻密かつリアルな、
お寺のお堂のセットが組まれています。

そこで8人の役者さんが、
観客達から提供された赤い古着を身にまとって、
お経を読み得体の知れない儀式を執り行います。

その儀式を、祭壇を囲んで腰を下ろした観客が見守る、
という趣向の作品です。

内容は基本的には般若心経を色々な音楽的なアレンジで、
何度も何度も繰り返すというような形式のもので、
最初は普通の読経ですが、
楽器を入れたリ、ジャズ風にしたりと、
色々なアレンジで反復されます。
その間に役者さんの個人技的なものも少し披露されます。
後半は僧侶達の興奮は高まり没入的な感じになりますが、
かと言って儀式自体が乱れるようなことにはならず、
通常に儀式が終わって、
観客も退場して終了となります。

大枠は仏教儀式のような体裁ですが、
崇拝の対象となっているのが仏ではなく、
蛸であるという点が違っています。
そのために般若心経の経文の言葉も、
部分的に変更が加えられています。
貸衣装の赤も蛸が意識されているようですし、
セットにも蛸の意匠があり、
役者さんの蛸踊りなどもあります。

観客には1人1人に楽器と教本が配られ、
その儀式の進行と経文などはその教本に書かれています。
楽器はいつ鳴らしても良いと言われて、
概ね音楽のリズムに合わせて鳴らされています。

これまでにない趣向のお芝居です。

ただ、面白いのかと言われると困ってしまう部分があります。

儀式は基本的に中央の檀の上で展開されていて、
観客はそれを傍観者的に見守るだけです。
儀式自体も特にハプニングなく終わり、
舞台に大きな動きや予想外の事態が起こる、
ということも特にはありません。
なので、最初は興味深く観ていても、
次第に「おいおい、こんな調子でいつまで続くんだ」
と言うような気分になり、
「これだけのセットを作って、起こることはこれだけなのか」
とちょっと脱力したような気分にもなるのです。

これは公演後のトークで、
長塚圭史さんも言われていたのですが、
何処まで真面目で何処までふざけているのかが分かりませんし、
観客参加のような雰囲気もありながら、
結局はあまり参加するようなところはないので、
その距離感も上手くつかめないという感じがあります。
設定としては観客を巻き込んでトリップする、
というような印象がありながら、
実際には観客を置き去りにして進行するからです。

個人的には最後に巨大な蛸が、
セットの屋根を突き破って現れてさあ大変、
というくらいはあっても良かったな、
というように思いますし、
エロスのような隠し味も教本からは窺われたので、
それなら全員キャストが全裸になるくらいのことが、
あっても良かったように思いました。

結局宗教儀式としての枠組みが、
最初から最後まで単色で変化してゆかない、
と言う点があまり面白くならない原因ではないかと思います。
衣装も古着では正直残念で、
もっと演劇的な雰囲気が欲しかったと感じました。

ただ、そうしたことはおそらく、
作・演出のタニノクロウさんにはどうでも良いことなのだと思います。

上演後の対談で、
「この作品のテーマはこれまでの自分の演劇を、
一回燃やして忘れてしまうことだ」
という趣旨のことや、
「これまで役者に興味を持っていなかったので、
今回は役者への罪滅ぼしのつもりで、
あまり演出せずに自由に演じてもらった」
というような趣旨のお話を、
これも真面目なのか不真面目なのか皆目わからないような、
常人には理解不能の奇妙なテンションで話されてしまうと、
「ああ、矢張りこの人の考えることを、
理解しようとする方が無理なのだ」
というあきらめにも近いような気分になるのです。

ただ、端々に感じられることは、
どうやら「仏教」という権威に対する、
かなりおちょくりに近い反発のようなものがあり、
それが作品の原動力になっているようには思われます。
観客の存在はおそらく、
役者さんほどにも意識はされていないようで、
一見観客参加のような試みがあっても、
それはポーズに過ぎないのではないかと感じました。

僕は試演会の方に行ったのですが、
事前にレクチャーがあって上演後に振り返りのトークがある、
ということで、
作品の全てが分かる、というような触れ込みでしたが、
実際には上演前の説明は、
数分の説明とも付かないようなものでしたし、
上演後のトークも、
結局よくある終演後のゲストトークの範囲を出ないもので、
特に理解が深まるということもなく、
正直失敗であったように思いました。
おそらくタニノさんは、
こうした趣向や観客サービスのようなものにも、
基本的に興味がないように感じました。

そんな訳で正直なところ面白くはなかったのですが、
作り込みなど例によって見事なこだわりで、
今後もこの奇怪な世界に、
参加はし続けたいと思っています。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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松尾スズキ「ニンゲン御破算」(2018年上演版) [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
ニンゲン御破算.jpg
2003年に先代勘九郎が主演した舞台を、
キャストを大幅に入れ替えて15年ぶりに再演した、
松尾スズキさんの異色時代劇「ニンゲン御破算」を観て来ました。

これは初演も勿論観ています。
2000年にコクーンで上演した「キレイ」が大傑作で、
興行的にも成功を収めたので、
その第二弾のプロデュース公演として、
鳴り物入りで上演されたものです。

当時は小劇場の作家が歌舞伎に参入するのが、
ある種の流行りでもありましたから、
これは松尾さんなりの新作歌舞伎と考えても、
そう誤りではないと思います。

ただ、初演ははっきり言えば大失敗で、
何より勘九郎さんはどう見ても松尾さんの作品には合っておらず、
他の大人計画のメンバーとも水と油の感じで、
大御所歌舞伎役者の舞台上での空回りぶりが、
とても痛々しく感じられるような無残な公演でした。

内容的にも主人公の戯作者の
「書くことが思いつかない」という嘆きが、
作者の松尾さん自身の私的な苦悩を幼稚に吐露しているようで、
2幕の終わりなどうんざりする気分になってしまいました。

今回の久しぶりの再演は、
松尾さん自身初演の出来映えに納得がいかなかったのかな、
というようにも思いますし、
一方でコクーンで上演する松尾さんの作品が、
タネギレになって苦し紛れに持ち出して来たのかな、
と思わなくもありません。

ただ、今回の再演はなかなかの出来映えで、
これはもう間違いなく初演を超えていますし、
松尾スズキ版の新作歌舞伎として、
野田秀樹さんや三谷幸喜さん、
串田和美さんの仕事と比較しても、
遜色のない水準に仕上がっていたと思います。

松尾さん、意外にやるじゃん、
という感じです。
(分をわきまえない発言お許し下さい)

これは主人公の善悪も性別も貴賤も、
あらゆる規範を無視したような怪物的な役者で戯作者が、
虚実ないまぜの幕末から明治に至る自身の人生を語り、
それに鶴屋南北と河竹黙阿弥という江戸末期の希代の戯作者が、
突っ込みを入れるという趣向の新作歌舞伎で、
生演奏あり本水の立ち回りあり残酷見世物ありと、
歌舞伎の趣向を現代的にアレンジして繰り広げられた、
松尾スズキ版幕末武勇伝です。

発想は抜群ですよね。

これは初演は実際の大看板の勘九郎さんが主役を演じ、
そこに南北役の松尾スズキさんと、
黙阿弥役の宮藤官九郎さんという、
こちらも当代を代表する戯作者が突っ込みを入れるというキャストなので、
それだけ聞けばとても面白そうです。
ただ、前述のように初演では、
勘九郎さんの中途半端な芝居が空回りして、
松尾さん達と全くかみ合っていない大失敗に終わりました。

今回の再演では主役を阿部サダヲさんが演じ、
松尾スズキさんとノゾエ征爾さんが突っ込みを入れる、
という感じになっていて、
正直ノゾエさんの役はクドカンにして欲しかったと思いますが、
座組的にもう松尾さんとクドカンは、
共演は難しいのでしょうから仕方がありません。
いずれにしても今回の3人は呼吸はピッタリですから、
3人のやり取りだけでもとても楽しく、
作品の面白さが、
初演よりずっとしっかりと伝わったのは、
意義のある再演であったと思います。

初演で阿部サダヲさんと吹越満さんが演じたマタギの兄弟を、
今回は荒川良々さんと岡田将生さんが演じていて、
これも初演よりスケールアップして作品をがっちり固めていました。

初演のヒロインの田畑智子さんは、
色々事情もあってのことなのでしょうが、
お元気が不足していて今一つでしたが、
今回は見た目はほぼ同一でも、
元気は5割増しくらいの多部未華子さんが頑張っているので、
この点でも今回が上でした。
それ以外のキャストは地味目なのですが、
品川宿の婆役の平田敦子さんや、
主人公の母親役の家納ジュンコさんの熱演が楽しく、
トータルにはとてもバランスの取れた、
素敵な座組でした。

作品的にも今回すっきりとした構成と演出で、
改めて見直してみると、
松尾さんが非常に歌舞伎を研究してこの作品を書いたことが分かり、
やや穏当に走っている点がらしくはないものの、
松尾さんの裏代表作の1つと言っても、
言い過ぎではないように感じました。

これね、たとえば主人公の祝言で、
花嫁行列や仏壇がぞろぞろ入って来て、
それから悲劇が起こるというところとか、
南北の芝居のお馴染みの趣向の1つなんですよね。
宿屋の左右の部屋で密談をするところとかも、
これも南北劇でよくある場面なんです。
黙阿弥めいた偶然が交錯する構成もあったり、
とても歌舞伎を勉強して書かれているのです。
それから地下にヒロインを招くところで、
「オペラ座の怪人」を使ったり、
旅芸人の一座と穴掘りを用意して「ハムレット」の趣向にしたり、
色々な演劇手法を貪欲に取り入れて、
それを1つの世界に綺麗に落とし込んでいるでしょ。
なかなかの手腕だと感心しました。

そんな訳でそれほど期待をせずに足を運んだのですが、
久しぶりに松尾さんの世界を堪能して、
充実した気分に浸ることが出来たのです。

なかなかお勧めです。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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唐十郎「吸血姫」(唐組・第61回公演) [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は土曜日で午前午後とも、
石原が外来を担当する予定です。

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
吸血姫.jpg
唐組の30周年記念公演として、
状況劇場で1971年に初演され、
唐先生の全ての劇作の中でも、
代表作と言って過言でない作品の1つ、
「吸血姫」が唐組では初めて再演されました。

僕にとってこの作品は、
唐先生の作品の中でも最も愛着のある1本です。

勿論初演は観ていませんが、
最初に観たのは1982年頃にシェイクスピアシアターで上演されたもので、
その後大学時代に僕自身が演出をして
(許可は得ていません。すいません)、
大学劇団の本公演として上演しました。
その後新宿梁山泊が初演のキャストの大久保鷹さんを迎えて、
地下の劇団アトリエと花園神社のテントで上演した舞台を観ています。
唐ゼミでも上演されましたが、
これはさすがにもういいかな、
と思って行きませんでした。

今回の上演は期待もしましたが、
今の唐組の役者さんで、
果たしてあの芝居を上演出来るのだろうか、
唐先生の花形を久保井研さんがやるとして、
悪役の両輪である麿赤児さんの袋小路と、
大久保鷹さんの川島浪速を、
誰が出来るのだろうかと思っていたのですが、
実際に幕が開いてみると、
袋小路浩三を大鶴佐助さん、
ヒロインの海之ほおずきを大鶴美仁音さん、
川島浪速を久保井さんという座組になっていて、
なるほど唐先生の血脈を、
堂々と押し出す作戦かと、
言われてみればこれしかないなと、
納得の行くものがあったのです。

これで舞台が詰まらなければ話にならないのですが、
上演された舞台はキャストも演出も、
僕がこれまで経験した「吸血姫」の上演の中では、
間違いなくベストの出来映えで、
アングラ演劇というものの1つの典型であり、
今なお最高到達点でもある、
2幕の後半と3幕の怒濤のラストが、
今の観客にその真価が伝わるように、
ある意味初演以降で初めて再現されたことは、
ちょっと感涙さえ覚えたのです。

この作品は勿論、
1971年という時代性と切り離しては、
その面白さが伝わらない部分があり、
初演のキャストでなければ伝わらない部分もあるので、
その限界は当然あるのですが、
そうした点を考えると、
今回の上演は今望みうる最高のものと言って、
間違いはないように思います。

この作品は僕も演出までしているので熟知しているのですが、
通常の上演で頭を悩ますような勘所が幾つかあるのです。
その第一は2幕の風呂屋の上げ板の処理で、
これがどういう位置関係で出て来るのか、
どうやって引っ込むのか、
その点が何度戯曲を読んでもよく分かりません。
それから、3幕でさと子の人形と本人が、
鏡が回転すると交互に客席に向かう、
という部分があるのですが、
一体どういう位置関係と動きになっているのか、
これも良く分からないのです。

この2つの点に、
今回の上演では鮮やかな正解を提示していて、
なるほどそうかと、
特に回転する鏡については、
その場で拍手をしたい思いに囚われました。

今回の舞台の成功の一番は、
ヒロインを鮮やかに演じた美仁音さんと、
袋小路という元々麿赤児さんへの当て役で難役を、
格闘するように演じた佐助さんの熱演にあって、
唐先生の血脈が、
このようにして今回大輪の花を咲かせたということが、
昔からのファンにとっては、
とても嬉しく感動的なことだったのです。

上演時間は2時間半で、
3幕劇の2幕と3幕をそのまま繋げて、
1回の幕間で上演しています。
ノーカットでありながらこの尺に納めているのは、
人力車の登場など、
要所を鮮やかなカッティングで、
緩みなく展開させているからで、
今回の久保井さんの演出は、
いつも以上に冴え渡っていたと思います。
唯一の不満はいつの上演においても、
原作に書かれている「幌付きトラック」が登場しないことで、
これは一時期状況劇場のどさ回りに使用していたものだと思われますが、
一度くらいは本物のトラックが舞台にあり、
それが原作のト書き通りに、
テントの外へと出て行くというラストを、
観てみたいという思いはいつもあるのです。

そんな訳で終わるのが勿体ないくらいの上演で、
アングラ演劇の真価を、
感じることも出来る極めつけの舞台でした。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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岩松了「市ヶ尾の坂ー伝説の虹の三兄弟」(2018年再演版) [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は土曜日で、
午前午後とも石原が外来を担当する予定です。

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
市ヶ尾の坂.jpg
1992年に竹中直人の会で初演され、
当時から非常に世評の高かった、
岩松了さんの代表作の1つ「市ヶ尾の坂」が、
何と26年ぶりに再演されました。

その間別の演出家による再演はありましたが、
岩松さん自身の演出による再演は今回が初めてです。

これは凄い芝居なんですよね。

岩松さんの劇作は、
何気ない日常会話だけを淡々と連ねながら、
そこに別個の感情や心理を、
見えないように忍ばせて物語りが進行し、
それがラストになって急に目に見える形に浮上して、
観客に衝撃を与えるという構成が特徴です。

それが結構急な暴力であったり、
事件であったりする作品もあるのですが、
この「市ヶ尾の坂」では本当に最後まで、
劇的と称されるようなことは何も起こらず、
物語にちりばめられた謎が、
明らかになるようなことも何もありません。

それじゃ日常と同じで、
何も面白いことはないじゃないか、
と思われると思いますし、
凡百の劇作家が描けば、
そうなってしまうと思うのですが、
そこがそうはならないのが、
岩松さんの天才たる所以です。

この作品はラストが凄いんですよね。
それも、階段を女性が1人降りてくる、
というただそれだけのことなんです。
本当にそれだけなのに、
それがとてつもなく衝撃的で戦慄的で、
何か物凄いものを見た、
という気分にさせてくれます。
これは本当に見事なラストだと思いますし、
ちょっと演劇史の中でも、
あまり類例のないような場面ではないかと思います。

真面目にこのラストを見るだけで、
この作品を観る値打ちは充分にあると思います。

ただ、今回の再演に関しては、
台本が竹中直人の会に対するかなりあて書き的なものなので、
その点に違和感を感じる部分はありました。

初演の3兄弟は竹中直人、田口トモロヲ、温水洋一という、
極めて濃いおじさんメンバーですから、
26年前で皆さん若いとは言え、
それでもイメージ的には得体の知れないおじさん三兄弟であったのですが、
今回はそれを大森南朋、三浦貴大、森優作という、
とてもすっきりしたメンバーで演じていて、
特に幼児性のあるような三男のイメージが、
本当の少年のようなイメージに置き換わっているので、
全体のムードはかなり初演とは異なるものになっています。

それは岩松さんの狙いでもあるので、
それはそれで良いと思うのですが、
大森南朋さんの芝居は、
明らかに竹中直人さんが透けて見えるようで違和感がありますし、
四角い顔のお手伝いさんというのは、
これはもう初演の片桐はいりさんへの当て書きそのものですから、
それを他の女優さんが演じるのは、
それが手練れの池津祥子さんであったとしても、
かなり無理があるようには感じました。

まあでも現代小劇場を代表する素晴らしい戯曲であることは、
これはもう間違いがありませんし、
岩松さんの演出も普段より少し演出を華やかにしながらも、
前半は敢えて退屈さを出して観客の眠りを誘いつつ、
ラストでそれを後悔させる凄味を見せる、
ある種の意地悪さがさすがですし、
岩松さんの演出に載った麻生久美子さんの芝居が、
また格別に素晴らしくて、
これも惚れ惚れするような気分になったのです。

いずれにしても岩松さんの代表作が、
今回本人の演出で再演されたことは、
この上もなく貴重な機会で、
これはもう小劇場演劇がお好きな方であれば、
「これを見ずに死ねるか」と言っても、
決して大袈裟ではないのです。

皆さんも是非。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

(追記)
この舞台の3場の終わりに流れるレコードの曲名を、
どなたかご存知はないでしょうか?
あのチークダンスを踊る奴です。
これは唐先生の「二都物語」のオープニングに流れたんですよね。
気になって気になって仕方がありません。

(再追記; 平成30年5月31日午前6時)
曲が気になったのと、
初見でよく分からないところがあったので、
無理をしてもう一度観に行きました。
パンフレットに岩松さんの記載があって、
曲はスタイリスティックスの「From the mountain」と判明しました。
唐先生はこの前奏だけを、
リピートで使っていました。
芝居はより練れていて、
掛け値なしに素晴らしいものでした。
坂の上と下で時間が移動していたり、
家の2階が無意識の欲望を解放していたり、
この作品は唐先生的なところもあります。
坂の上と下とを象徴的に使うのは、
「秘密の花園」と「海の牙」でありましたよね。
松葉杖は僕には「ジョン・シルバー」
のオマージュであるようにも感じられました。
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マクドナー「ハングマン」(長塚圭史演出版) [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。

今日はこちら。
ハングマン.jpg
今年脚本と監督に当たった映画「スリービルボード」が日本公開され、
高い評価を得たマーティン・マクドナーの、
今のところ劇作としての最新作で、
2015年にイギリスで初演された「ハングマン」が、
今世田谷のパブリックシアターで上演されています。

これはイギリスで死刑制度が廃止された、
1960年代が舞台となっていて、
当時有名な絞首刑執行人で引退後にパブを経営している、
ハリーという男が主人公です。
彼は廃止された死刑に関わる自分の仕事に、
それなりにプライドを持っていたのですが、
死刑制度廃止の日に意地悪な新聞記者に取材を受け、
冤罪の男の死刑を執行したのではないかと
疑いを掛けられたことで心穏やかではありません。
その同じ日にロンドンから来たという、
謎めいた男が初めてパブを訪れ、
自分がかつての冤罪が疑われている事件の、
真犯人であるかのような話を始めるので、
パブには不穏が空気が流れます。
翌日ハリーの1人娘が謎の男を話をした後で、
忽然と姿を消します。
男が連れ去ったのでしょうか?
翌日のパブの夜に再び男が現れた時、
疑惑は沸点に達して暴力の連鎖が始まります。

如何にもマクドナーという作劇で、
「スリービルボード」を観られた方なら、
同じ構造と匂いとをお感じになると思います。
中段はやや散漫な印象もして、
物語がどう転がるのか予測の付かないところがあるのですが、
ラストになってみると、
見事にシンメトリックな構造が浮上して、
マクドナーらしいブラックなひねりもあり、
観終わって時間が経つ毎に、
じわじわと味わいの広がる辺りがさすがです。

以下ネタバレを含む感想です。

これはオープニングでまず1963年の、
ヘネシーという男の絞首刑の様子が描かれます
ヘネシーは無罪を訴えるのですが、
主人公のハリーはそんなことには聞く耳を持ちません。
時は死刑が廃止された1965年に移り、
パブに現れた謎の男は、
自分が冤罪の真犯人であるかの如くほのめかし、
ハリーの娘を連れ去ります。
娘が男にさらわれたことを確信したハリーは、
翌日パブを訪れた男を、
リンチに掛けて首を吊し、
勢いで殺してしまうのですが、
そこにさらわれた筈のハリーの娘が元気に現れます。
謎の男の悪事というのは、ただのはったりだったのです。
一気に醒めたパブの客達は、
ハリーに協力してリンチに荷担したにも関わらず、
ハリー1人に責任を押しつけて姿を消します。
残ったのは変わり者の以前からのハリーの絞首人時代の手下の男で、
2人で男の死体の処理の算段を、
何か懐かしそうにするところで物語は終わります。

要するに最初に国家権力による、
冤罪の絞首刑が描かれ、
次に全く同じ冤罪の絞首刑が、
今度は民衆の自由意志により行われる様が描かれます。
国家権力による絞首刑は、
段取り良く10分くらいで終わり、
その一方で民衆による絞首刑は2時間が費やされます。
殆どの民衆はその責任を取らず、
全てがハリーとその部下1人に押しつけられるのは、
死刑が廃止されても変わることはなかったのです。

マクドナーらしい皮肉で深い死刑論だと思います。

このように構造的にはとても高いレベルで完成されているのに、
悪ふざけとも思えるような脇筋と、
緊張を巧みに崩すブラックな笑いや、
規格外れのろくでなし揃いの登場人物の造形などで、
そのバランスが常に脅かされるのが、
これもマクドナーの作品の魅力です。

この芝居はイギリスのパブの雰囲気が重要で、
英語のだじゃれのような台詞が多いので、
日本での翻訳上演は、
かなりハードルが高いのが実際です。

長塚圭史さんの演出は、
いつもながら感度の高い繊細で完成度の高いもので、
マクドナーの脱力的な部分は上手く残しながら、
観客に芝居の構造とテーマを、
伝えることに尽力した、
見応えのあるものでした。

セットの造形と美術は特に素晴らしいものだったと思います。
その一方でドタバタや暴力の部分は、
やや抑制的で破天荒さには欠けていたように思います。

今回はおそらくこの作品の日本初演ということもあって、
長塚さんとしては楷書での演出を心がけたのだと思うのですが、
次回は是非もっと羽目を外した感じの上演も、
試みて欲しいなと思いました。

この作品の魅力は単一ではないからです。

キャストは脇まで実力派が揃っていて、
ちょっと贅沢すぎるくらいのメンバーです。
主役のハリーを演じたのは田中哲司さんは、
すっかり最近は座長役者の風格がありますし、
その妻に秋山菜津子さん、娘に富田望生さん、
子分に宮崎吐夢さんとセンスの光る座組です。
要の謎の男を演じた大東駿介さんは、
なかなかの熱演ではあったのですが、
この役にはもっと初見での異様さが、
欲しかったと感じました。

正直マクドナー作品として、
代表作とは言えないと思いますし、
細部の処理には不満もあるのですが、
この面白い作品の日本初演としては、
その真価を充分に感じさせる優れた上演だと思います。

ご興味のある方は是非。
時間があればもう一回観たいのですが、
どうも無理なようです。
皆さんが代わりに観て頂ければと思います。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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城山羊の会「自己紹介読本」(2018年再演版) [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日までクリニックはゴールデンウィークの休診です。
明日からは通常通りの診療になります。

休みの日は趣味の話題です。

今日はこちら。
自己紹介読本3.jpg
2016年の小劇場演劇で一番のお気に入りだった、
城山羊の会の「自己紹介読本」が、
三軒茶屋のシアタートラムに場所を移して、
4月の半ばに再演されました。

これについてはまずこちらをご覧下さい。
自己紹介読本2.jpg
チラシの裏面の一部ですが、
初演の時に書いたブログ記事の一部を、
今回引用して頂きました。

これまで演劇関係の記事で、
こうして使って頂けたのは初めてで、
とてもとても嬉しくて、
しばらくニヤニヤしてしまいました。

その縁で今回はご招待して頂いたので、
買ってあったチケットを妻用にして、
2人で今回の再演に出掛けました。

今回の再演は、
劇場は初演時よりかなり大きくなっていますが、
キャストは全く同じで、
ただの自己紹介から始まって、
予測不可能な展開を見せ、
ラストは異次元に観客をいざなってくれるのですが、
それでいて観終わって良く考えてみると、
オープニングに既に全てが終わっていたことが、
明らかになるという、
極めて技巧的で完成度の高い作品です。

それでいて、
全体のイメージは洒脱で軽く、
一種の艶笑奇談にもなっているという、
小劇場史上唯一無二の傑作なのです。

初演はもっと小空間で、
バックステージのかすかな声が漏れ聞こえて来るなど、
小空間ならではの趣向もあったので、
その点では今回は物足りなさも感じましたが、
その一方で今回はセットなど、
よりリアルな距離感で構築されていて、
この作品のまた別個の魅力が、
明らかになったと感じました。

次回の城山羊の会は、
また新作になるようですが、
楽しみに待ちたいと思います。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

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月刊「根本宗子」第15号「紛れもなく私が真ん中の日」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は連休でクリニックは休診です。

祝日は趣味の話題です。

今日はこちら。
ねもしゅー15号.jpg
小劇場マインドの塊のような根本宗子さんが、
今年初めての純然の新作公演を、
今浅草の九劇で上演中です。

「紛れもなく私が真ん中の日」と題されたこの新作は、
オーディションで選ばれた21人の女優さんが、
極めて緻密かつ奔放に演じる群像劇で、
根本さん自身は出演せず、
戯曲と演出に専念しています。

これは僕が観た根本さんの作品の中では、
間違いなく最も素晴らしい一本で、
小劇場の歴史に残ると言っても、
決して大袈裟ではないと思います。

見逃すと絶対に後悔するレベルのお芝居で、
ほぼ再演は不可能だと思いますし、
仮にしたとしても今回のようなフレッシュさは、
失われてしまうと思います。

掛け値なしの傑作ですので、
僕のことを信じて頂けるなら、
何を置いても是非劇場にお急ぎ下さい。
勿論好みというものはありますから、
全ての方が同じように感動するかは分かりませんが、
このお芝居が本当の本物であることだけは、
全ての方が感じて頂けると信じています。

以下内容に少し踏み込みます。
大きなネタバレはしませんが、
先入観なく鑑賞したい方は、
観終わった後にお読み下さい。

開場からポップな装飾のお屋敷と思しきような場所で、
10人以上の子供なのか少女なのか大人なのか、
良く分からないような女優さん達が、
思い思いに遊んでいる姿は、
何だかあまりに雑然としていて、
とても面白いお芝居になりそうには思えないのですが、
ところがどうしてどうして、
そこから緻密な群像劇が立ち上がると、
意外にも膨らみを持った物語は、
感動的なエンディングまで一気呵成に走り抜けます。

21人のキャストを過不足なく描き分けるだけでも超人的ですが、
物語が中段にさしかかる時には、
その全員が何か僕達の記憶の中に生きているような気分になり、
僕達の記憶の一部に入り込んでくるような錯覚に陥るのです。

そして感動的なラストでは、
根本さんの定番の趣向である、
過去の自分が現在の自分に呼びかけるという構図が、
より切実さを持って描かれ、
観客の誰もが一緒に同じことを呼びかけているような、
そんな錯覚にすら陥るのです。

切なく感動的で、
素晴らしいラストだったと思います。

中学生の「真ん中を目指す」というやり取りの中に、
大人の社会の縮図のようなものを描くという手法は、
昨年の三谷幸喜さんの「子供の事情」が意識されているように思います。
ただ、その風景が更に相対化されるという点では、
この作品は三谷さんの作品の更に上を行っていると思いますし、
そのいじめや格差、自意識過剰におぼれた世界へのシニカルな視線は、
より鋭く深い洞察に満ちていると思います。

更に僕がこの作品を好きなのは、
この作品が純然たる小劇場演劇のスタイルを守っていて、
かつてのアングラに通底する、
美意識をまた持っていると言う点にあります。
キャストのある種の異様さは、
寺山修司の見世物演劇を彷彿とさせる部分がありますし、
テンションの高い一人語りの呼吸は、
唐先生のテント芝居に繋がる息づかいを感じさせます。

つまり、根本さんの芝居は、
紛れもなく現在の芝居であり、
そこで語られる言葉は、
この社会の肉を斬り、
血を迸らせるところから発せられるものですが、
それでいて彼女の演劇DNAは、
深い部分でアングラの地下水脈に繋がっているのです。

役者を調教する演出も冴え渡っていて、
セット構成も、
対角線に倒れた柱が、
時間という断層を切り裂くというアイデアなど、
随所に天才を見せつけています。

唯一僕が不満なのは、
今のお芝居の常で説明過多なところで、
エリート少女の没落を、
侍女の台詞で説明してしまうのですが、
これは台詞自体不自然ですし、
暗示にとどめる程度で良かったように思いました。
ただ、これは昔の難解芝居好きの、
悪い癖かも知れません。
あまり明快に説明されると逆に醒めてしまうのです。
しかし、それを割り引いても、
この部分は流れが悪かったと思います。

ただ、そうした些細な瑕など問題にならないテンションで、
これだけ充実した内容が、
1時間半に濃縮されているのが素晴らしく、
これを観ると、
2時間を超えるダラダラ芝居の多くが、
ただの馬鹿の繰り言のようにしか感じられないのです。

ともかく、「観て!」としか言えない傑作で、
強く強くお薦めしたいと思います。

真面目に凄いですよ。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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「ヘッダ・ガブラー」(2018年栗山民也演出版) [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。

今日はこちら。
ヘッダ・ガブラー.jpg
イプセンの名作「ヘッダ・ガブラー」が、
シス・カンパニーの賑々しいキャストと、
栗山民也さんの地味で暗い演出で上演されています。

イプセンは19世紀としては異様な感性を持った、
とても魅力的な劇作家ですが、
日本では「人形の家」が新劇の黎明期に取り上げられ、
自立する女性のシンボルのように、
その主人公が描かれたために、
お行儀の良いお芝居のように、
誤解されている感があります。

この「人形の家」からして、
実際にはかなりグロテスクで奇怪な作品で、
男女のドロドロとした愛憎が表現されているのですが、
今回上演されている「ヘッダ・ガブラー」は、
より複雑で変態的で奇怪で魅力的な作品です。

主人公のヘッダは高名な将軍の娘で社交界の花形でしたが、
平凡な学者を夫に選んでしまいます。
しかしそこにかつて自分が見限った若い学者が、
献身的な女性の助けで立ち直って現れます。

ヘッダは自分の選択が誤りであったことに苦悩し、
それを認めることを拒否して、
異様な妨害でかつての恋人を破滅させ、
自分も破滅への道を辿ります。

この物語の魅力は、
何と言っても主人公のヘッダの複雑な人格にあって、
特に自分がもたらした若い学者の死に様に、
自分の美意識に適うものがないことに絶望する、
という辺りの審美的な感覚に、
イプセンの天才を見る思いがあります。

キャストは主人公のヘッダを演じた寺島しのぶさんが、
時々朗読調になるのが難点ですが、
なかなかの座長芝居を見せてくれました。
美しくも尊大にも哀れにも見えるという、
その振幅の大きな差が魅力です。

夫役の小日向文世さんは、
その資質を活かした余裕のある快演で、
話のキーになる判事役の段田安則さんも、
なかなか渋く安定感のある芝居を見せてくれました。

そんな訳でなかなか充実した舞台だったのですが、
感心しなかったのが演出です。

栗山さんの演出は僕とは相性が悪くて、
良い時もあるのですが、
僕の観た多く舞台は鵜山仁さんほどではないですが、
地味で暗くて単調でイライラすることが多いのです。

残念ながら今回の舞台もそうでした。

比較的リアリズムの装置ですが、
高さが大きく引き延ばされていて、
単色の書き割りがただ上に伸びている、
という感じなので、
舞台に密度がなく安っぽい印象になってしまっています。
引っ越し公演の安手のオペラの舞台のようです。
これはもっとお金を掛けて細部の装飾などを、
緻密に再現するか、
そうでなければ舞台自体はもっと抽象化して、
個別の家具などで重みを演出するか、
どちらかにするべきではなかったでしょうか?
また、舞台の正面に階段があって、
その先が庭という体になって役者の出入りに使われているのですが、
そこのみがリアルな舞台から外れていて、
これも統一感がなく如何なものかと思いました。

照明も全体に暗くて、
特に舞台の最初を暗くするのは、
コクーンくらいの広さの劇場では、
遠くの観客に不親切なだけで、
大して効果はないので止めて欲しいと思いました。

舞台の中央に大きな鏡があり、
オープニングとラストにのみ、
その背後にヘッダの姿が浮かび上がります。

これも安手のオペラなどによくある趣向ですが、
ラストにヘッダがこめかみを銃で撃ち抜くのを、
イメージとして見せるのは、
駄目演出だと思いました。

その前にヘッダの陰謀で若い学者が死に、
その最後がヘッダの美意識に適うものであったかが、
台詞で議論され、
こめかみから心臓、そして陰部への暴発と、
幻想はめまぐるしく事実に打ち砕かれるのですが、
最後のヘッダの部分はこの死と呼応しているので、
それは言葉で語られるべきで、
実際に舞台に現れるべきではないと思います。
出すとしてももっと抽象的なイメージとして、
表現するべきではなかったでしょうか?

カーテンコールでは死んだ直後のヘッダが、
余韻を感じる間もなく、
すぐに舞台に出て来るのですが、
これもセンスがないと感じました。
ここは一呼吸置いて、
観客に主人公が死んだことを、
反芻してもらう必要があるからです。

今回の演出は、
申し訳ないのですがそんな感じで、
最初から最後まで駄目でした。

イプセンには他にも変態戯曲が沢山あり、
日本では殆ど上演されないものも多いので、
これからもイプセン劇の上演には、
なるべく足を運びたいと思っています。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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