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曜変天目ニ椀 [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。

この間京都と奈良に行って、
丁度公開されていた国宝の曜変天目(ようへんてんもく)
茶碗を2椀鑑賞しました。

完品での現存が3椀のみで全て国宝という、
お茶碗好き以外にも広く知られている作品です。

まず最初に行ったのが、
京都から勢いでレンタカーを飛ばして、
滋賀のミホ・ミュージアムで鑑賞したこちらです。
ようへんてんもく1みほ.jpg
ミホ・ミュージアムは新興宗教の運営する美術館で、
その指導者の方のコレクションが母体となっているのですが、
一般にも公開されて観光地になっています。

山の中にあって、
トンネルを潜り、
巨大な吊り橋のようなものを渡って館内に入ります。
収蔵品そのものより、
その圧倒的な景色の美観が印象的です。

今回は特別展として、
大徳寺の子院に収蔵されている曜変天目が出品されています。

曜変天目のガラスケースまで長い列を並び、
30分ほどで鑑賞出来ました。
係り員の方が1分を測っていて、
その1分間のみは最前列で鑑賞出来るという方法です。
1分が過ぎてまた鑑賞したい方は、
再び列の後ろに並びます。

ストレスが掛かりますが、
仏像と違って茶碗にはそう執着はないので、
物見遊山的には1分で充分な感じです。

正倉院展の時やフェルメール展の時には、
そうした時間制限はないので、
同じ作品の前に、
同じ人が10分でも15分でも陣取って、
そのまま動かないのでいつまで経っても観ることが出来ません。
「こいつめ!」と思わず頭を叩きたくなります。
その人の後頭部を、
「ははあ、この辺りに少し問題がありそうね」
とじっくり鑑賞してため息を吐きます。
「早く去れ!」と念じますが、
どうやら僕にはそうしたスペックはないようです。
それと比べればこの形式の方が、
余程ましかな、と思いました。

茶碗は3椀の中で一番小さく、
外側には文様がありません。
清楚で楚々とした感じでした。

それから奈良に行って、
毎年3回以上は訪問している、
奈良国立博物館に足を運びます。

特別展がこちらです。
ようへんてんもく2なら.jpg
こちらは今リニューアル中で閉館している、
大阪の藤田美術館からの出張展示です。

矢張り曜変天目のみ列の後ろに並びます。
こちらも30分くらいで最前列に着きます。

らせん状の通路の真ん中にガラスケースがあるので、
そこまでの通路で並びながら解説のパネルを読むことが出来ます。

この博物館はライティングが良く、
陳列もセンスがあると思います。
同じ国立でも京都国立博物館はセンスもライティングも最低で、
これはもう人間の問題なのだと思います。

こちらは1分という制限はありませんが、
時計回りにケースの周りを一周し、
それでお終いという方法です。
前後に促されるので、
同じ親父が15分粘る、
ということは出来ないのです。

大徳寺のお椀より大ぶりで、
模様は外側にもありとても華やかです。
仏像と違って守備範囲ではありませんが、
それでも良いな、とは思いました。

肝心の仏像は、今の時期はあまり目玉がありませんでした。

今日は曜変天目の訪問記でした。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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フェルメール展(フェルメールと私) [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は土曜日で午前中は中村医師が、
午後2時以降は石原が外来を担当する予定です。

土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
フェルメール展.jpg
先日終了間近の東京のフェルメール展に足を運びました。

フェルメールの絵を初めて実際に観たのは、
1994年に循環器の学会でベルリンに行った時で、
今回も来日したベルリン国立美術館の「真珠の首飾りの女」でした。

今はどうか分かりませんが、
あの美術館は学校に併設されたようなギャラリーで、
結構のんびり鑑賞することが出来ました。
レンブラントやカラヴァッジオの作品も印象的な美術館でした。

その後でウィーンに行って、
ウィーン美術史美術館で「絵画芸術(画家のアトリエ)」を観ました。
この美術館は2日間掛けてじっくりと鑑賞しました。
ここも当時は特にフェルメールの絵の前が、
賑わっているという感じはありませんでした。

通常海外の美術館では、
多くの絵はガラスケースなどなくそのまま鑑賞することが出来ますが、
当時からフェルメールの絵に関しては、
ヨーロッパの美術館でもガラスケースに入っていて、
ガラス越しの鑑賞でした。

そんな訳で、
フェルメールは当時から伝説的な画家でしたが、
絵は小さいしガラス越しだしと、
あまり良い印象はありませんでした。

次は2度目に来日した「真珠の耳飾りの少女」の時で、
この時は勿論非常に混雑していたのですが、
1列に並んでゆっくり動きながら鑑賞する、
という様式で、
何度か列に並ぶことで、
比較的じっくりと鑑賞することが出来ました。

ガラスケースには勿論入っていたのですが、
一見では直に展示してあるように見えます。

この時はさすがに良かったですね。
とても感銘を受けました。

今回は一度に10点近いフェルメールの真作が一堂に会する、
という日本ではかつてない企画展で、
実際には小ぶりな美術館の、
一番最後の部屋のみにフェルメールが集められています。

勿論大混雑ではあるのですが、
日時と時間を指定したチケットを買うという方式なので、
それほどのストレスなく会場に入ることは出来ます。

ただ、フェルメールの部屋では、
ゆっくり動きながら鑑賞するという方式ではなく、
そのまま幾らでも絵の前に止まれるので、
いつまでも絵の正面で動かないような人がいると、
かなりストレスに感じてしまいます。
もともととても小さな絵ばかりなので尚更です。

当日は最後に飾られていた「牛乳を注ぐ女」の前に、
長身の外国の方が真正面に仁王立ちをしていて、
15分くらいねばりましたが、
ビクとも動かないので、
うんざりしてあきらめて帰りました。

今回もとても反射の少ないガラスケースが使われていて、
ちょっと見にはガラスがないように見えます。
鑑賞環境はまずまずだったと思います。

ヨーロッパの美術館はいいですよね。

それほど行っているという訳ではありませんが、
ウィーン美術史美術館もプラド美術館も良かったですし、
ウィーンもスペインも、
田舎にさりげなくあるような、
小さな美術館がまたムードがあって良いのです。

また行きたいな、とは思いますが、
今の仕事環境ではなかなか難しそうです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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ナイツ独演会「ワッショイ」でないことだけは確か [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
ナイツ.jpg
ナイツの独演会に足を運びました。

ナイツにはそれほど興味はなかったのですが、
最近レセプト作業をしている時に、
you tubeで唐先生の状況劇場時代の音声と、
ナイツの漫才のまとめ音源を、
交互に聞きながらエンドレスでやっているので、
だんだんと好きになって来ました。

まとめて聞いていると、
お馴染みの「ヤホー漫才」以外にも、
色々なバリエーションがあって、
シュールなものからベタな楽屋落ち、
技巧的に練り上げられたミステリー的なものまで、
とても面白くかつ完成度が高いのです。
塙さんの奇想とボケも良いのですが、
土屋さんがとても良い仕事をしています。
歌も物まね芝居も抜群の完成度です。

それで今回は是非と思い舞台に足を運びました。

漫才の独演会というのは、
あまり行ったことはなかったのですが、
ナイツが漫才を7本披露し、
その合間にゲストがネタを披露してメリハリを作ります。
途中には土屋さんが演歌のオリジナルの新曲を歌う、
という企画があり、
最後にはお楽しみとして、
塙さんが出演した刑事ドラマのパロディ芝居が付きます。

漫才も作家さんが書いたものが3本に、
ナイツ自身のオリジナルが4本で、
内容にも幅があり堪能出来ました。
欲を言えば伏線を張り巡らしたマニアックなものも、
生で聴きたかったな、というようには思いました。

いずれにしてもとても楽しい2時間を過ごすことが出来ました。

これからも藝を磨いて頑張って欲しいと思います。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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カンニング竹山単独ライブ「放送禁止2018」 [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は祝日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
カンニング放送禁止2018.jpg
もう1ヶ月ほど前になりますが、
毎年恒例のカンニング竹山さんの単独ライブに足を運びました。

このライブは6年くらい前からは、
気に入って毎年足を運んでいます。

このライブは鈴木おさむさんが構成をしていて、
いつも一ひねりあるんですね。
最初に見たのが結構完成度の高い回で、
行き当たりばったりに話を広げているように見えて、
最初から随所に伏線が引かれ、
それが最後に収斂して、
意外なクライマックスに結び付くのです。
その良く出来たミステリーのような舞台に、
なるほど、たった1人のトーク・ライブを、
こうして構造化することが可能なのだ、
と感銘を受けたのです。

当時のそこまでビッグではないけれど、
芸能界の一角にはしっかりと踏みとどまっている、
でもそれほどしがらみはないので、
言いたいこともまだ言えるし、
一般の人との距離も、
それほど開いていない、
という感じの竹山さんの立ち位置が、
またとても良い感じではあったのです。

ただ、ここ数年の内容は、
正直付け焼き刃的なものが多くて、
以前であれば1年がかりで準備をして、
という感じであったのに、
最近のものはちょこちょこ取材しただけ、
というようなものが多くて、
お忙しいので仕方がないのかな、
と思うものの、
少しガッカリすることが多かったのが、
正直な感想です。

特に今回は、
実際に準備されたアクションが、
3日だけの張り込みというもので、
それから1つのインタビューのみから構成されていたので、
それは幾ら何でも手抜きではないかしら、
と感じてしまったのと、
インタービューも敵対するべき相手に、
簡単に丸め込まれているような感じがあったので、
個人的には「それはないだろう」
という気分になってしまいました。

この落胆というのは、
おそらくは竹山さんがそれだけ以前よりビッグになり、
ステイタスが上がっていることの証明なのだと思います。

だから、竹山さんにとっては良いことなので、
1人のファンとしては素直に、
「良かったですね」と言うべきなのだと思います。

こうしたことは以前にも何度かあって、
中学生から高校生くらいまで、
タモリのオールナイトニッポンが大好きで、
毎回テープに録音して何度も聴いていたのですが、
ある時から「素晴らしい人に会った、感激した」
みたいな普段は毒舌ばかりなのに、
社会的にステイタスのある人に対して、
素直に感激して崇拝する、みたいな感じの話が多くなって、
それから今度は自分の自慢というのか、
「俺は金はあるんだ」みたいなことを、
勿論ギャグとして言うのですが、
聞いている方はそうは感じないので、
だんだんその自分との距離感に嫌になって、
聞くのを止めてしまったことがありました。

また、高校から大学にかけての時期は、
ビートたけしのオールナイトニッポンが大好きで、
これもつらい生活を乗り切るために、
これだけが楽しみ、という感じで心の支えであったのですが、
フライデイ事件の前くらいの時期は、
矢張り「俺は偉いんだ、お前らには見えない世界を見ているんだ」
というような感じが漂うようになって、
少し「兄さんも遠くに行ってしまったのね」
という残念さはあったのでした。

ファンにも卒業はあるものですから、
これはこれで世の常ではあるのですが、
人生に一度くらい、
そうした段階を乗り越えて、
一生のファンであるようなあり方が、
あればいいのに、とは思うのです。

でもこれは、僕の側の成長が未熟なためかも、
知れませんね。

多分来年はもう行かないと思います。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

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遺伝子検査はそれほど役に立たないこともある、という話 [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は金曜日でクリニックは休診ですが、
老人ホームなどの診療には出掛ける予定です。

それでは今日の話題です。

今日はちょっとした雑談です。

数年前に風疹の若年層の流行が、
大きな問題になったことがありました。

その時に20代の女性で、
発熱と共に全身に米粒大の赤い皮疹が、
出現した患者さんが外来を受診されました。
場所は勿論今の品川ではありません。

頸部のリンパ節の腫脹も認められ、
風疹を疑って保健所に連絡を入れました。

通常全ての事例で個別に検査をしてくれる、
ということはないのですが、
たまたま風疹の流行が問題になっていた、
ということもあったのでしょう、
保健所の担当者の方がクリニックを訪れ、
風疹の遺伝子検査をして頂けることになりました。

同時に採血をして、
風疹の感染初期に上昇するIgM抗体と、
以前の感染の場合に上昇するIgG抗体を測定しました。

その結果…

血液検査ではIgM抗体、IgG抗体ともに陰性でした。

これは判断に迷う結果です。

そして、数日後に遺伝子検査の結果が判明しましたが、
その結果も陰性とのことでした。

要するに風疹はほぼ否定されたのです。

ただ、僕はどうも納得がいきませんでした。
患者さんは麻疹ははっきりした既往がありましたが、
風疹についてはそれはなく、
症状経過からも風疹が強く疑われたからです。

それで、
1か月後に再度検査をする機会があったので、
もう一度IgG抗体価を測定しました。

すると、
1280倍と明確な抗体価の上昇があり、
風疹であったことがほぼ確定しました。

それでは、遺伝子検査では何故陰性だったのでしょうか?

これは何とも言えませんが、
検体を採取するタイミングもあったと思いますし、
ウイルス量などの問題もあったのかも知れません。

いずれにしても、
遺伝子検査も万能ということではなく、
抗体価の測定や臨床症状などと、
適宜比較対照して、
その信頼性を高める必要があるのだと思います。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

お猿のシャーロット [身辺雑記]

思い付きでもう1つ雑談を記事にします。

何処かの国で女の子が生まれたという、
格段ニュースにもならなさそうな話題が、
大騒ぎで報道され、
その女の子の名前の一部がシャーロットである、
ということがまた、
驚天動地の如くに報じられると、
たまたまその時に、
日本の南の方の町で、
動物園の猿の赤ちゃんの名前が公募されていて、
騒がれれば、
そりゃ、シャーロットという名前が多く書かれるのは、
理の当然でしょ。

それで多数決により、
お猿の赤ちゃんの名前がシャーロットになると、
それがまた面白ニュースとして報道されます。

すると、
今度は「猿に外国の王女の名前を付けるとは失礼だ」
という抗議の声が動物園に殺到し、
それがまた扇情的に報道されます。

この段階では、
お猿にシャーロットという名前を付けるという行為は、
「悪」として排斥される流れになりました。

しかし…

これですまないのが、
今の世の中の恐ろしさです。

ネットで幅を利かせているようなご意見番的な人物の多くは、
「お猿のシャーロット」の是非について、
様子見をしてあまり積極的な発言をすぐにしませんでした。

まずは、
「本当にかの国がお猿の名前を気にするのかな?」というような、
観測気球的な発言がチラチラと飛ばされます。

それから、
動物園を管轄する地方都市が、
王女様のお国にお伺いを立てる、
という報道があり、
これに対しては、
「こんなことで外国様に迷惑を掛けるのは恥ずかしい」
という揶揄するようなコメントを出し、
またも様子見の姿勢を取ります。

最終的には「我関せず」という、
大使館からの返事とも言えないようなコメントを持って、
行政はシャーロットという名前を変えない、
という決定をし、
「当然だ。お猿の名前など外国様が気にするものか」
という主張が今度は大勢を占め、
「お猿のシャーロット」を批判して、
炎上を画策したり、その尻馬の乗った人の方が、
「悪」や「愚劣」のレッテルを貼られる事態になりました。

もう一度この流れが反転することが、
絶対ないとは言えませんが、
おそらく「外国のお墨付き」という錦の旗を手に入れた以上、
これを覆すことは困難なように、
現状は思われます。

これが理に適った結論なのでしょうか?

僕は疑問に思います。

この問題に正解はないように思うからです。

お猿にシャーロットという名前を、
このタイミングで付けることは、
やや軽率な行ないであったように、
個人的には思います。

動物園が名前を公募する、ということの意味は、
こうしたことではない、と思うからです。
その時代を象徴するような名前を選んだり、
一番愛されているキャラクターの名前を選んだりして、
これからも末永く、
そのお猿さんの成長に、
地域の人に興味を持ってもらおう、
というくらいの意味ではないでしょうか。

そこに、一番ニュースになっている、
海外の王女様の名前を付けることは、
別に分不相応というような意味ではなく、
単純にちょっと場違いな感じがします。

ニュースはただのニュースであって、
本当に一時的な人気であり、
それほどの興味を多くの人が、
長く持ち続けるとは想定出来ないからです。

公募に対して、
「シャーロット」という名前を書いた方も、
多分殆どの方は、
その時のニュースダネで条件反射的に書いたのであって、
これが数日でも時間がずれれば、
結果は全く変わっていたのではないかと思います。

もう1つの微妙な点は、
「猿」に人間が勝手に命名する、
という行為についてのものです。

SNSやネットで権力を持っている方の少なからぬ方は、
猫などの動物の愛好家です。

たとえばこの話が、
特別な血統の猫に、
シャーロットという名前を付ける、
という話でしたら、
多分こうした問題にはならなかったと思います。
微笑ましいニュースとして、
終わったのではないでしょうか?

それでは何故今回は問題が発生したのかと言えば、
端的に言って「猿」という動物が持つイメージが、
影響をしていることは間違いがありません。

今回「お猿のシャーロット」を、
不謹慎なものとして攻撃し炎上を図った人達も、
これが猫の名前なら躊躇した筈です。

猫の背後には「猫好き」がいて、
巨大な権力と勢力とを持っていて、
その「猫好き」がどのような反応をするのかが、
俄かには判断出来ないからです。

彼らに一斉に牙を剥かれれば分が悪いのは明らかです。

しかし、それが猿なので攻撃は行なわれました。

それは、猿という動物自体の問題ではなく、
「猿」という言葉に付いたこれまでのイメージが、
「不謹慎」という事実を補強するもののように、
攻撃する側には感じられたからではないかと思います。

これは勿論一種の差別です。

悪いイメージを持つ猿とシャーロット様を同一視するのはけしからん、
という攻撃の趣旨は、
「断りもなくそうしたことをする礼儀知らずめ」
というニュアンスと共に、
猿は愚かしいものや愚劣なものというイメージがあり、
そうしたものとシャーロット様を同一視するのはけしからん、
という意味であるからです。

「猫好き」もちょっと迷ったと思うのです。

猫と猿を同一視することに、
おそらくは少し抵抗があるからです。

それが、今回様子見のような現象が生じた、
主な要因と思われます。

猿と猫と人間とを、
全く同じものとして並列に扱うのか、
それともどれか1つを特別なものとして扱うのか、
この問題が闘いに発展したような場合、
その根本にある心理が、
炙り出される可能性があるからです。

「好き」というのは、
つまりは相手を特別視する心理なので、
それは差別感情と極めて良く似ているのです。

今の世界においては、
「差別」というものが絶対悪です。

それも特に人種などの血統に属する差別、
男女や出自、職業など、
人間の属性に関する差別は、
そうしたレッテルを一旦貼られることにより、
地位や名誉や肩書の、
全てを失いかねないような重みを持ちます。

実際に些細なことでつるし上げを受け、
一生挽回不可能なようなダメージを受けた事例は、
最近では枚挙に暇がありません。

しかし、その一方で人間というのは、
いやより広く生物というのは、
基本的に差別をする性質があり、
差別は人間を含む生物の本性のようなものです。

全ての行為は差別的で、
全ての言葉は差別意識を内包しています。

それが生物というものであり、
だからこそ競争が生まれ、
進歩が生まれ、愛が生まれるのです。

要するに差別感情というのは、
他の動物を押しのけて、
人間がエラそうな顔をしていられる源泉のようなもので、
ある種の必要悪なのですが、
生物の中でそうした良い思いをしていることへの、
一種の疾しさのようなものが人間にはあるので、
「人種差別は良くない」
というような綺麗事を言い、
そのために争いまで起こすことによって、
その疾しさを相殺しようとしているのです。

ですから、
一番問題があるのは、
シャーロットという名前を付けたことではなく、
動物に相手の意思を確認することなく、
勝手に名前を付けてラべリングする、
という行為そのものの差別性にこそある訳です。

しかし、それを言いだせば、
全ての命名行為とはそうしたものなので、
全ての人間がそうしたことをしているのが実際で、
偽善で生きて威張っているような人も
火の粉を被りかねないので、
今回はそうした皆さんにも躊躇があり、
結局は「外国の大使館のご意見」という、
錦の御旗が出るまで、
表立った発言がなかったのではないかと思います。

最後に僕の考えるシンプルな正解は、
動物園が以下のような発表をする、
というものです。

担当者が猿山の猿の皆さんによくよく相談をしたところ、
「まあ、お前ら人間が勝手に俺達に名前を付けるのは、
気に入らねえけど、
今に始まったことじゃないし、
好きにすればいいさ。
でも、シャーロットってのは何か馴染めない名前だから、
変えてくれよ」
という回答を得たので、
「○○」という名前に変えることにしました、

要するに相談するのはかのお国の大使館ではなく、
お猿の皆さんであるのが筋ではないか、
ということです。

皆さんはどうお考えになりますか?

橘寺と撒かれた油の話 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。

今日は雑談です。

ゴールデンウイークには、
いつものように奈良に行ったのですが、
ちょっとブルーな気分になったのは、
例の文化財に撒かれた油の被害を見たからです。

僕が見たのはこちらのお寺です。
橘寺.jpg
橘寺は聖徳太子に縁の古寺で、
明日香村の小高い丘の上に、
堀に囲まれて城塞都市のようにそそり立っています。

遠くから見たそのビジュアルは、
本当に城塞都市か山城のようで素敵です。

聖徳太子像を祀る本堂(太子殿)が、
上のチケットの写真にもなっているのですが、
ここも「油撒き男(性別は仮称)」の餌食となっていました。

このお堂では、
内陣の畳と木の床に跨るようにして、
黒い染みが飛び散るように残っていました。

瓶か何かから、
バッと一気に掛けた、
と言う感じの飛沫です。

お寺の方にお聞きした話では、
朝の掃除の時には何もなく、
それから2時間ほどの短時間の間の出来事だったそうです。

このお寺は、
奈良の観光地としては、
比較的マイナーな部類ですから、
2時間でそれほどの参拝者はいません。

ですから団体客ということではなく、
個人の参拝者であったことは、
この橘寺の事例のみでは、
間違いのないことなのです。

撒かれた場所は、
丁度お堂の正面向かって左にある受付からは、
柱で死角になる場所でした。

つまり、意図的にその場所を選び、
誰にも見られていないことを確認の上、
一瞬で油を撒いたことにほぼ間違いはありません。

従って、以上のような情報から、
これが何かの儀式などではなく、
「汚れなき悪戯」の類でもなく、
純然たるいやがらせの一種であって、
しかも、撒いた本人には、
それが疚しいことだという自覚があって行なったであろうことも、
ほぼ推測が可能です。

誰にでも触れられる場所にあり、
誰でも汚すことも壊すことも可能である筈の、
1つの素朴な信仰の対象が、
数百年、時には千年を経て残っている、
ということの奇跡に、
素朴に感動したいと願うのが、
僕の奈良行きの主な目的ですが、
色々なものが少しずつ汚され、
悪意によって少しずつ滅んで行くのを、
目にしないといけないのであれば、
そろそろ足を洗った方が良いかな、
と思わなくもありません。

橘寺の観音堂には、
藤原時代の優れた如意輪観音がいらっしゃって、
これも非常な楽しみなのですが、
お堂はかなり荒廃した雰囲気で、
補修の寄付が募られてはいますが、
いつ着工になるとも知れません。

その御前で金500年の写経(もどき)をして、
手を合わせ、静かにお寺を後にしました。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

無能な医者がいることを前提に医療の質を上げるにはどうすれば良いのか? [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。

今日は雑談です。

確か、野田秀樹の「農業少女」の中の台詞だったと記憶しているのですが、
たとえば100人の同じ人が集団で仕事をしていると、
同じ人の筈なのに、
そのうちの10人は確実に怠けていて、
仕事をしないで全体の効率を下げているので、
その10人を排除してしまうのですが
そうすると今度は残りの90人のうちの9人が、
矢張り同じように怠けてしまう、
というような話がありました。

「農業少女」はナボコフの「ロリータ」を下敷きにしているので、
ひょっとしたらそちらに同じような話があるのかも知れません。

全く同じクローン人間でも、
沢山集まればそうしたことが起こる、
というのがこの話の肝で、
人間というものの本質を、
何か鮮やかに提示されていたようで感心した覚えがあります。

人間である以上、
どんな集団にどんな教育を施し、
どのような強圧的な仕組みで運営しようとも、
その仕事集団には、
必ず一定の比率では無能な者や怠け者がいて、
全体の統率を乱します。

しかし、集団そのものには、
集団としての水準というものはある訳です。

脱落者や怠け者や無能者がいるからといって、
その異分子を集団から排除すれば、
集団の質が向上するかと言えば、
決してそうではない、
というのがこの話の教訓です。

失敗は許されないという仕事があり、
警察や消防や司法などと並んで、
医療もその1つです。

異物混入と同じように、
失敗を許されない仕事に、
実際にミスがない、ということは有り得ないのですが、
信頼というのはこうした仕事の権威を守る意味において、
非常に重要な幻想の盾なので、
集団の中での無能者が、
取り返しの付かないようなミスをしても、
それをないものとして隠したり、
取り繕ったりするのが、
少し前までの組織防衛の手段でした。

集団によっては、
今でもこうした対応を、
取っているところはあるのではないかと思いますが、
医療の世界においては、
これまで守られていたミスは、
内部告発で明るみに出され、
そうしたことが大好物のマスメディアによって、
バラエティーショーの生贄として、
大衆の餌として娯楽に転化されるようになりました。

勿論医療ミスというものは、
患者さんの命や身体に直結し、
そこに多くの被害をもたらす可能性のあるものですから、
それが不用意に隠されるということに、
大きな問題があることは間違いがありません。

しかし、
だからと言って、
それが面白おかしくある種の懲罰のように、
娯楽として垂れ流されるのがあるべき姿とは思えません。

医療の世界、特に医者の世界において、
その権威の失墜が顕著になったのは、
一種の内輪揉めが、
日常茶飯事で起こるようになった点にもありました。

その集団において、
自分は100人のうちの90人であって、
無能な10人ではないと信じ、
この集団ではそうした落伍者は許されない、
と信じているプライドの高い医者は、
ある時は勤務医による開業医への罵倒の形を取り、
ある時は製薬会社からの情報を無邪気に信じる同業者への罵倒や、
過去の常識をアップデートせずに、
日々の診療を続けている先輩への罵倒などの形を取り、
自分は正しい仕事をしているのに、
自分の属する世界には、
誤った仕事をしている無能な奴らが多いと、
それを一般の多くの方が見ている、
SNSのような世界で、
「娯楽」として垂れ流します。

製薬会社と医者との癒着が、
問題であることは事実でしょう。
しかし、交流のある世界での情報のやり取りにも、
一定のメリットはあるように思います。
それを、製薬会社の担当者から情報を得るような医者は無能だ、
というような言葉を、
呪詛のように垂れ流すのは、
僕にはとても節度のある態度とは思えません。

正しい診療や正しい治療、というものは、
確かに存在することは確かでしょう。
しかし、一般に使用が許され、
適応病名もあり、保険収載もされている医薬品について、
それを使用しているというだけで、
「無能な医者」のように言い募るのは、
如何なものでしょうか?

それも1つの排除の論理であり、
そうした攻撃的な言動を繰り返すことで、
結局は集団の質を下げることに繋がるのではないでしょうか?

こうした攻撃によって無能者を吊るし上げ排除しようとすると、
無能ではないけれど有能であるとも信じられない、
大多数の医療者は、
自分で考えることを止め、
「権力者」に付いていこうとするのではないでしょうか?
本当は製薬会社の担当者から、
情報を得ることもメリットのある場合もあり、
「悪の薬」のように言われている薬も、
それほど悪いものではないと思っていても、
そんなことは言えないので、
却って自分で考えることを止め、
思考停止に陥るのです。

こうしたやり取りで、
この集団の質が向上するとは僕には思えません。

それでは、どうすれば良いのでしょうか?

僕の個人的な考えは、
どんな集団であれ無能で不勉強で怠け者はいるので、
それを当初から織り込んだ上で、
その集団全体として、
その無能者をフォローし、
彼らのミスが決して被害をもたらさないように、
トータルにカバーするようなシステムこそが、
求められているのではないか、というものです。

不勉強な医者もいれば、
勉強熱心な医者もいて、
器用な医者もいれば不器用な医者もいるのです。

医者は障碍者や恵まれない人のためにつくそうとか、
そうした気持ちを開陳される方は多いのですが、
不勉強で怠け者の医者をサポートしようとか、
助けようとはあまり思いません。
ただ、僕はそれはそれほど違うことではないのではないか、
いついかなる時でも、
集団の中で、そこから遅れる成員が生じるのが、
人間というものの特性なので、
集団は常にその遅れた成員のために、
フォローする心を持つことこそが、
その集団の質を高め、
それが仕事の集団であれば、
トータルにその仕事の質を高め、
ミスを減らすことに繋がるのではないかと思えるのです。

個人的に思うことは、
重要な方針の転換は、
医療界全体で足並みを揃えて行なってゆくことが、
最も重要ではないかということです。

ある薬が良くないことが分かったとして、
それが通常の手続きで、
継続的に患者さんに使用されているものであるなら、
その使用を控えるような流れを作ってゆくことは、
それほど簡単なことではありません。

そうした中で、
外野に向かって、
「俺はこの薬は悪い事を知っているから使わないぞ!」
と叫ぶようなことをすると、
実際には多くの医療者が、
まだ患者さんにその薬を使っていて、
それは別に違法なことでもなく、
既に海外では使用が禁じられている、
という類のことでもないのですから、
殊更に患者さんには不安を招き、
また主治医への不信を募らせるだけで、
トータルな医療状況として見た時には、
むしろネガティブな影響を多くするのではないでしょうか?

無理解な医者や不勉強な医者も含めて、
全ての医療者がその薬を処方しない方向に、
無理なく向かえるような環境作りこそが、
まずは必要なことなのではないかと思いますし、
代替的な治療なり、より望ましい治療があるとして、
その方向に、
全体で無理なくシフト出来るような方法を、
集団全体で模索し、
それがしっかり定着の方向へ向かうまでは、
無用に集団内の脱落者を非難し、
利用者である患者さんを不安に陥れるような行為は、
たとえ善意であっても、
慎むべきものではないでしょうか?

僕が研修医の頃の、
学会の指導的な立場の先生は、
その多くが非常に紳士的な態度で、
学生には物凄く厳しかったのですが、
一旦同じ医者として接すると、
本当に同等の立場として、
ちょっと不気味に思えるくらい、
丁寧で控え目で、
こちらを立てるような話し方に終始していました。

こちらの疑問点に関しては、
本当に噛んで含めるように説明してくれました。
要するに今思えば、
僕のことを「無能な同業者」として理解し、
その上でこちらのレベルに自分を落として、
医師の世界をトータルに守ろうと、
そうした姿勢を取っていたように思います。

色々な医者がいることは勿論確かなことでしょうし、
批判的な発言を敢えてされる方は、
勿論有能な方で、
素晴らしい見識と技術と知性をお持ちなのでしょうが、
それでも、
同業者を悪し様に罵ることは、
結果として医者の集団全体の評価を落とし、
信頼を失わせる行為になるのではないでしょうか?

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

ある学会のガイドラインはどうしてこんな感じなのか? [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は水曜日なので、
診療は午前中で終わり、
午後は産業医の面談に廻る予定です。

今日は雑談です。

昨日前立腺肥大についての記事を書きましたが、
その時に日本の前立腺肥大症のガイドラインを、
参照として読んでみました。

それがこちらです。
前立腺肥大症のガイドライン.jpg
皆さんは何か不思議に思われないでしょうか?
そう、年号や何版かなど、
作成された年月日を示す記載が何処にもありません。

中身を見ると、
最初の「序」に2011年4月の記載があります。
まとめられたのが2011年のようです。
そこにはビックリすることに、
前回のガイドラインは2001年で、
10年間改訂はされていないと書かれています。

ガイドラインというのはその時点での最新の治療の指針である筈です。

前立腺肥大症という、
極めて一般的な病気の治療の指針が、
専門の学会において、
10年間改訂されない、と言う事実にもビックリですが、
本来2001年のガイドラインの改訂の筈なのに、
その記載が本文の何処にも存在しない、
ということにも驚きます。

こんなことで本当に良いのでしょうか?

当該の学会のサイトを見ると、
物凄く多くの個別の疾患や症状のガイドラインが、
作成されていることが分かります。

しかし、改訂がされているものはそのうちの極僅かで、
殆どは「出しっぱなし」に終わっています。

中には2007年に作成された、
悪名高い「LOHガイドライン」も堂々とまだ載っています。
所謂男性更年期のガイドラインで、
日本独自の診断が提唱されていて、
発表当時は健康番組で頻繁に紹介されるなど、
大きな話題になりました。
しかし、近年欧米ではその存在自体が否定される傾向にあり、
多くの文献が発表されていますが、
未だ改訂はされていません。

勿論日本独自の治療指針があっても、
それはそれで良いのですが、
議論となり海外の治療や診断と大きな乖離が生じているのですから、
少なくとも改訂作業は迅速に進めるべきではないでしょうか?

特定の学会の批判をするつもりはありません。

実際には日本のガイドラインには、
少なからずこうしたものがあり、
この学会だけの問題ではないと思います。

ガイドラインというのは、
多くの医療者に共有されるべき、
公共性の高い情報だと思います。

しかし、たとえばこの学会のサイトを見ると、
殆ど全てのガイドラインは、
学会の会員のみ閲覧可となっています。
血尿のような一般的な症候のガイドラインは、
少なくとも無料でダウンロードは出来るのが、
学会自体の公共性というものではないでしょうか?

臨床医学の学会がまっとうなものであるというためには、
その関わる疾病についての、
ガイドラインを作成すると共に、
それを当然のことながら、
定期的に改訂してアップデートし、
その成果は広く公開して、
多くの医療者に金銭負担なく提供するのが、
最低限の条件ではないでしょうか?

皆さんはどうお考えになりますか?

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

下記書籍引き続き発売中です。
よろしくお願いします。

健康で100歳を迎えるには医療常識を信じるな! ここ10年で変わった長生きの秘訣

健康で100歳を迎えるには医療常識を信じるな! ここ10年で変わった長生きの秘訣

  • 作者: 石原藤樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/アスキー・メディアワークス
  • 発売日: 2014/05/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)





専門家フィルター論 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は水曜日なので、
診療は午前中で終わり、
午後は産業医の面談に廻る予定です。

今日は雑談です。

昨日記事にしましたように、
人間ドック学会が自分達の研究の中間報告に過ぎないものを、
わざわざ報道機関にのみ公表し、
その思惑の通り、
あたかも既成事実であるかのように報道されたことで、
毎日のように診療中にその説明をする状況が続いています。

それが、
血圧の正常値が147に引き上げられた、
という内容のものです。

多くの患者さんはこの結果がただの中間報告で、
しかも単年の結果に過ぎず、
今後の議論の叩き台の1つに過ぎない、
という説明で一応理解はして頂けるのですが、
絶対駄目で説得などお手上げのケースもあります。

あるAさんという患者さんは、
高血圧のお薬を継続的に飲まれていて、
診察室での血圧は130/76にコントロールされていました。

定期的に血液の検査も行なっていたのですが、
ある時近藤誠という人の本で、
全ての健診は無駄なので止めた方が健康に良い、
という内容を読んだので、
今後一切血液検査はしたくない、
と診察の時に言われました。
無駄に長生きはしたくない、と言うのです。

それは確かに無駄な検査もありますし、
厳密な検証をすれば、
多くの健診に生命予後の改善効果などの認められないことは、
それは事実ではあるけれど、
高血圧の薬を継続的に飲んでいる以上、
薬の弊害や高血圧の予後に関わる検査を、
定期的にすることに意味がないとは言えない、
という意味合いのことを、
多分30分くらい掛けて説明したのですが、
近藤先生がこう言っていたからの一点張りで、
僕が何を言おうと聞き入れてくれる様子はありません。

そもそも本に書いてあることは、
その多くが癌検診の話で、
定期的な診察時に適宜行なう検査についての話ではないのですが、
そんなことを言っても、
所詮は聞いてはもらえないのです。

それでカルテにはその旨記載して、
検査は行わないことにしました。

長生きはしたくない、ということであれば、
血圧の薬を飲むこと自体も、
そう厳密な意味で意義のあることとは言えず、
飲む必要もないのではないかしら、
と思いましたが、
Aさんの頭の中では、
血圧の薬を定期的に飲むこと自体は、
一定の意味のある行為であるようでした。

そして、
今回の人間ドック学会の報道があってから受診したAさんは、
「血圧の基準値が上がったそうですね」
と言いました。
「新しい基準値なら薬を飲む必要はないと思うので、
もう薬を飲むのは止めることにしました」
と続けます。

一応少し話はしました。
でも、無駄だと言うことはほぼ分かっていたので、
それほどしつこくは言いませんでした。

Aさんはこうした人で、
僕の説明が通じるような人ではないことが、
前回のやり取りで分かっていたからです。

本来医者と患者さんとは、
ある治療や検査をすることに対して、
同じ目標と認識とを持ち、
一種の契約をした上で、
診断や治療を続けるのがあるべき姿だと思います。

しかし、実際には意思の疎通が困難なケースもありますし、
一見スムースに廻っているように見えても、
医者の認識と患者さんのそれとは、
乖離しているケースも多く存在していると思います。

僕はこれまでの経験から、
人間同士は分かり合えないことの方がずっと多く、
そうした場合に議論をするのは無駄なことが多い、
という考え方なので、
たとえばAさんのような方を、
説得する愚を犯すことは、
極力控えるようにしています。

一般の方は「病気」ということについては非常に敏感です。

「健康」と「病気」とは常に対立概念として認識され、
病気は何か禍々しいものとして、
忌むべきものとして、
科学としての医学などからは離れたところで、
人間の心の中に1つの大きな位置を占めています。

従って、病気と病気ではない状態との境目は、
明確なものでないといけません。

それが曖昧であることは、
頭の中の善悪を区別するという回路を不明瞭にするので、
人はその不安に耐えることが出来ないからです。

一方で科学としての医学においては、
病気の概念はむしろあやふやなものになり、
その境界も明確なものではなくなっているのがトレンドです。

高血圧などもその代表で、
正常と異常との明確な区分けはなく、
「動脈硬化の病気の予防のためには、
これこれの血圧を目指すことが望ましい」
というようなボーダーラインを重視した診断基準になっています。

しかし、一般の方の感覚はそうでないことが多く、
テレビなどで130を越えたら血圧に注意、
というようなCMが流れれば、
130を越えると「高血圧」という病気になって、
薬による治療が必要になる、
というように判断しがちですし、
今回のように人間ドック学会の新しい基準値では、
147までが正常と判定される、
というような報道を見れば、
今まで俺の血圧は140だったので、
高血圧という病気で治療を受けていたけれど、
今回147までが正常に変わったので、
俺は病気でなくなったのだから、
もう医者に行く必要はない、
というような理解になりがちなのです。

その意味で、
基準値の発表や報道というものは、
一般の方に大きな影響を与えるものなので、
それを報道したり発表する場合には、
本当に慎重な配慮が必要なのですが、
今回の人間ドック学会の一件では、
学会にも報道機関にも、
その意識が欠如していたことが、
僕は大きな問題だと思います。

僕の尊敬している新潟大学の疫学の先生は、
日本人のデータを元にして、
脳卒中の発症リスクを簡便に計算可能なソフトを完成された際に、
それを一般の人の簡単に目に触れる形では公開せず、
その代わり臨床に携わる医療従事者には、
広く使用可能なように発表されました。

それは、
決して情報を隠したということではなく、
この計算ソフトを一般の患者さんが使用すると、
たとえばそのまま喫煙した場合のリスクと、
今禁煙した場合のリスクとを計算して、
何だこの程度しか下がらないなら、
禁煙は止めよう、というような、
自分に甘い安易な言い訳のツールに、
使用されることを危惧されたためです。

こうした配慮こそが見識であり、
疫学の専門家とはこうした方であるべきだと、
僕は思います。

専門家はフィルターの働きを果たすことこそが使命なのです。

多くの情報をそのまま垂れ流すのは、
その一般の方への影響を考慮する想像力のない、
素人のすることで、
専門家はその情報のうち、
一般の方に誤解を与えるようなものをすくい取り、
濾過して、
適切な情報を一般の方に送り、
誤解を与える情報については、
それをより誤解なく伝わるように修正したり、
それを伝えても問題のない時期に、
改めて公表するような処置を取るのです。

恣意的ではなく、
それでいて不用意に隠匿するのでもない、
適切で便利な情報フィルターの役割こそが、
一般の方にとっての専門家の最大の意義であるように、
僕は思います。

人間ドック学会の責任者の方は、
自分達の研究による基準値の意味が、
誤って報道機関で誤解を招く記事にされた、
というような説明をされているようですが、
それはあまりに無責任な見解のように思います。

報道機関は誤解するのです。
誤解するのが彼らの仕事だからです。
そんなことは当たり前のことで、
そもそも基準値というものは、
病気と健康を二元論で考えている多くの人にとっては、
非常に大きな意味を持つものなのであり、
卑しくも疫学の専門家を名乗るなら、
そのことを肝に銘じる必要があるのです。
そして、そうした見識を持っていれば、
中間報告の段階で、
まだ単年の検査の段階で、
その数値を報道機関に発表するような愚は、
決して犯すことはないのです。

僕はですから今回の発表を絶対に許しません。

報道で誤解されたと説明すればそれで済むのでしょうか?

今回の発表で混乱されたり、
治療を取りやめたりした多くの患者さんに対して、
どう責任を取ってくれるのでしょうか?
僕の無駄な説明の労力と、
臨床の現場の混乱に、
どう責任を取ってくれるのでしょうか?

せめてAさんに個別に連絡を取って説明して頂けませんか?

少なくとも、
150万人のメガスタディなどと浮かれて、
個々の人間を数字として見ているあなた方に、
基準値などは永久に決めて欲しくはない、
というのが僕の言いたいことの全てです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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