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日本のアングラ(その12) [フィクション]

僕が最後に加奈子と共演したのは、
1986年の2月に行なわれた、
卒業生の追い出しを兼ねた新人公演でのことだった。
最初に出した画像も、
その時のものだ。

当時の劇団のシステムとしては、
春、夏、冬の年3回の本公演があり、
それ以外に秋の研究会的な公演と、
2月の新人公演があった。

本公演というのは、
一般のお客さんにチケットを売って、
幅広く来てもらう形式の公演だ。
と言っても、大学の学生劇団なので、
主体は役者の同級生などの学生になり、
OBを含めた関係者や、
劇団員の知り合いなどが混ざるのが常だった。
その一方で研究会公演と新人公演というのは、
基本的には新人のトレーニングを兼ねた、
外部からは閉じた公演だ。
研究会公演では、
翌年の主力メンバーとなる2年生が、演出を務めて、
1年生を主体とした新人キャストが、
本公演では考えられない大きな役を演じる。
新人公演も基本的には同じだが、
時期的なこともあって、
卒業する上級生がそれに加わる。

どちらの公演も、
基本的に観客も劇団員が殆どだ。
チケット代もない。

加奈子は夏の本公演でいきなりの抜擢を受けてから、
その後の秋の研究会公演には参加せず、
冬の本公演にも参加しなかった。
その裏には前述の西谷との接近があったのだ。

僕はそのまま加奈子は劇団を離れるのだと思っていた。

オリジナルの冬公演の評価も、
散々なものであったから、
僕自身も劇作や演出はもう辞めようと思っていた。

アングラ演劇は、
東京のような都市圏のみならず、
僕がいたような田舎でも、
既に過去の遺物と化していたのだ。

僕は1985年の暮に、
何となく疎遠となっていた、
2年生の主力メンバーの元を訪ね、
次回の春公演では役者としては出るけれど、
演出は君達に任せる、という意志を鮮明にした。

多分2年生が一番驚いたのは、
僕が演出を譲る、という話よりも、
次の公演に僕が出る、ということであったかも知れない。

僕は正直演技はからっきしで、
2年生の時に大きな役が来て、
それが散々な出来であったのに懲りて、
演技の才能はないとあきらめ、
自分が演出した芝居では、
自分の出番は極力小さなものにしていたからだ。

しかし、演出の道を断たれてしまったその時の気分としては、
たとえ無駄な挑戦であるにしても、
もう一度役者として舞台に立ち、
演技の努力をしてみたい、
自分の一挙手一頭足に、観客の注意を集めてみたい、
という思いに抗い難くなったのだ。

2月の新人公演は、その前哨戦とも言えた。

僕以外にその年に卒業する2人の先輩と、
1年生の有志が顔を揃え、
戯曲は1年生で冬公演にも出てくれた、
桐原君が担当して演出もしてくれた。

彼は数少ない僕の理解者だと、
その時は思っていたのだけれど、
実際には陰で結構僕の悪口を言っていて、
そうでもないことが後で分かった。
要するに、相手に合わせて態度を変えるタイプの人間だったのだ。
ただ、僕は今でも彼には感謝している。
僕が企画した公演で、
作・演出を快く引き受けてくれる劇団員は、
彼以外には考えられなかった。

そして、新人公演の参加者を決定する1月の部会に、
年末の奇妙な演技指導以来、
全く音沙汰のなかった加奈子が、
何の前触れもなく現われた。

いつもの青いダッフルコート姿で、
その物腰には何の緊張感も感じられなかった。
当然のように部会に来て、
「新人公演に参加予定の人は?」
という僕の質問に、
無言でしっかりと手を上げた。

僕のその時の気分を説明することは難しい。

加奈子の参加は勿論嬉しかった。
しかし、彼女が参加するのであれば、
僕自身の手で彼女を演出したかった。
誤解を恐れずに言えば、
僕の手のひらの上で彼女を転がしたかった。
桐原などに任せたくはなかった。

しかし、もうその最終確認の時点では、
桐原君に任せることは決定事項であったし、
加奈子の出演は想定外の事態だった。

その上、僕自身が舞台で加奈子と共演しなければならない。
僕自身は役者のみで参加の予定であったからだ。
戯曲は勿論まだ出来てはいなかったけれど、
散々偉そうなことを言っておいて、
舞台上で加奈子相手に醜態を見せる訳にはいかなかった。

そして、色々な不安を伴いながらも、
1986年の1月の下旬に、
たった2週間という短い練習期間が始まった。

今思えば、
これが加奈子と僕が同じ舞台に立った最後であり、
僕にとっては最後の「楽園」だった。
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