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日本のアングラ(その11) [フィクション]

実は「レトロウイルス」の公演の直前に、
僕は加奈子と会った。

彼女はそのことを秘密にしてくれと言うので、
僕は下総さんにもそのことを話さなかったのだが、
実際にはその後で加奈子は下総さんとも会っていて、
僕と会ったこともその時に筒抜けであったことを、
僕は後になってから知った。

僕の下宿に夜の10時頃に電話があって、
「石原さん、わたしのこと分かります?」
という嫌な言い方だった。

僕は加奈子のことしか考えていなかったので、
すぐに加奈子の名を口にした。

僕も随分と無防備な応答をしたものだ。
仮にそれが加奈子でなかったなら、
僕は別の1人の女性の信頼を、
確実に失うことになっていたからだ。

それでいて、
加奈子から僕に電話があることなど、
僕は想像だにしていなかった。

僕が彼女の名前を告げると、
一瞬ゴクリと息を呑むような間合いがあった。
それから、
「先輩に、ちょっと演技を見てもらいたいと思って」
と、当然の依頼のようにそう言った。

「お前は僕を裏切って、
西谷とやらの劇団の芝居に出るのだから、
僕なんかに頼らずに西谷に言えばいいじゃないか」
と、口元までそうした言葉が出掛かったのだけれど、
それでも加奈子と2人だけで会える、
という機会を逃すことは耐え難かった。

それで馬鹿な僕は即答で「いいよ」と言うと、
何の条件も付けずに加奈子の依頼を受け入れたのだ。

加奈子は僕を人文学部にある、
サークル活動で使用している、
プレハブの共用スペースに呼び出した。

イスと机が無雑作に並ぶだけの味気のない空間で、
床はコンクリの打ちっ放しの、
潤いのないものだった。
以前はロッカールームに使用されていたスペースを、
ロッカーを取り除いただけで、
使用しているらしい。

冬公演の終わった直後だった筈なので、
12月の2週目くらいだったことになる。
「レトロウイルス」の公演は、
確かその1週間後くらいに、
クリスマス公演と題して行なわれた筈だ。

この項を書くに当たって、
かつての資料を探したのだが、
引っ越しの間に何処かに行ってしまったらしく、
当時のパンフレットのようなものは見付からなかった。
従って、正確ではないのだが、
ほぼその時系列で間違いはないと思う。

ともかく酷く寒い夜であったことは覚えている。
僕の下宿から大学までは歩いて10分くらいの道程だが、
アスファルトの道路は完全に凍り付いていて、
何度も滑って転びそうになった。

部屋に入る金属製のドアノブの表面にも、
薄く霜が降りていたし、
本来は透明な厚い窓ガラスは、
凍り付いて白い曇りガラスと化していた。

全てが何か無機的で金属的な印象があった。
あらゆるものから冷気が立ち上り、
うっかり触ろうものなら、
鎌鼬のように肉が削ぎ落とされそうだった。

僕はノックもせずに無雑作にドアを開いた。

と、スチールの机に向い、
ドアとは反対側を向いて腰かけていた、
青いダッフルコート姿の加奈子が、
すぐに振り返ってこちらを見た。

左側から振り向いたものだから、
僕の知らない大人の女の顔が、
不意に僕の目と合ったのでドキリとした。

彼女は他人に横顔を見せる時には、
その少女の俤の強い右側を意図的に向けるようにしていたから、
彼女にとってもそれは予定外の行動だったのだと思う。

それだけ彼女は混乱していたのだろう。

「先輩すいません。わざわざ来て頂いて」
加奈子は言った。

話を聞くと、
公演直前であるのに台詞の言い方に煮詰まっているらしい。

「オリジナルなんだろ」
「ええ」
「じゃ、その西谷だっけ、そいつに聞けばいいじゃないか」
僕の言い方は嫉妬めいた気分もあって、
何か突き放したようなものになる。
しかし、加奈子はそれを意に介する様子はなかった。

「それが先輩の演出とは違うんです。何も決めてはくれなくて、自由にやってごらん。と言うだけなんです。それで、気に入らないと、もう1回別のやり方でやってみて、と言うだけなんです。最初はそれでも、最後には決めてくれるのかな、と思ってたんですけど、もう来週が本番なのに、一向にそれまでと変わらないんです」
「ふーん。どんな台詞?」
加奈子は戯曲を取り出したりはせずに、
その場で暗唱した。

「『あたしのことを誰だと思ってるんだい。伝説の女医だよ。そのレトロウイルスが最強の細菌兵器なら、あたしは人間界最強のヒーラーさ。太宰治か何だか知らないが、あたしがお前の脳を変えてやるよ』…こんな具合なんです」
例によって抑揚のない独特の口調で、
さらっとそれだけ喋ると、
真顔で正面から僕の方を向いた。

「おやおや」
僕は丁度その時読んでいた、
村上春樹の「羊をめぐる冒険」の、
印象的な相槌の言葉を口にした。

どんな話かと思って聞いてみると、
主人公の大学生の男に、
ある日太宰治が憑依して、
所構わず目に付いた女性をくどいて
その女性と心中事件を繰り返すので、
その真相を探ろうと、
加奈子が扮する天才外科医である「伝説の女医」が、
登場する。
色々あって、
大学生の脳に寄生したウイルスが原因であることを突き止め、
外科手術で脳のウイルス寄生部位のみを除去する手術に挑むのだが、
それはかつてないほどの難手術で、
手術には成功するものの、
術中の感染で、
今度はその女医にウイルスが侵入し、
彼女にはサッチャーが憑依するのだと言う。
実はそのウイルスはアメリカが製造した生物兵器であったので、
サッチャーはアメリカ相手にその責任を追及することになる。

今思うと、矢張り西谷には才能があったのだと思う。
こんな馬鹿な話を、
2時間の戯曲に仕立てるのは、
意外に骨の折れる仕事であるからだ。
出鱈目な話を、真顔で信じるような相当のテンションが、
そこには必要になるからだ。

ただ、その時の僕の気分としては、
医学知識がない癖に、
脳外科手術や伝説の女医みたいな趣向を、
平気で作品化する態度に腹が立ったし、
太宰を入れて文学臭を出したり、
サッチャーを入れて社会派を気取るような、
安っぽいインテリ気取りにも腹が立った。
そもそも、ウイルスを細菌兵器と称している点で、
既に間違っているのだ。

加奈子が出なかった冬公演は僕のオリジナルだった。
加奈子は僕の戯曲と西谷の戯曲の、
どちらが優れていると思っているのだろうか?

僕はしかし、
咽喉元まで出掛かったその質問を、
実際にはすることはなかった。

僕の戯曲が否定されることを、
薄々は感じていたので、
それだけは避けたかったのだ。

僕は加奈子が僕の才能に信頼を置いているという、
気弱な幻想に縋っていた。

「この間の黒蜥蜴みたいなテンションでいいのじゃないかな」
「でも、この人は女医なんですよ。女賊の女王様タッチじゃ、まずいのじゃないかしら」
更に難しいのは、
後半では鉄の女サッチャーに変身するので、
それが分かるように差を付けなければいけないのだが、
両方とも同じ「気の強いキャラ」なので、
その差が付け辛いのだ。

僕はその瞬間に察するものがあった。

加奈子は「大人の女」を出そうとしている。
旦那を尻に敷く大人の女のサッチャーを、
自分の「左半分」で演じようとしているのではないか、
という推測だ。

方針が決まるとそこからは早かった。

少女が自分を高く見せる時の、
ある種の虚勢を張る感じとして、
前半の女医のパートを処理し、
後半のサッチャーは大人の女の、
上から全てを見下すような感じで処理をした。

何度も加奈子に台詞を言ってもらい、
その抑揚のみならず、
顔の傾け方や表情について、
何度も試行錯誤を繰り返した。

気が付くともう鳥の声が聞こえ、
夜明けに特有の、あの胸騒ぎのするような感じが、
底冷えのする張り詰めた空気の中に漂っていた。

「先輩ありがとうございます。何となく道筋が付いた気がします」
加奈子は他人行儀にそう言った。
そんなことが聞きたい訳ではなかった。
加奈子という稀有のアングラ女優と、
僕が藝術を通して何かを共有しているという、
その証が欲しかったのだ。
せめて、
「石原さんじゃないと、わたしの演出は無理ですね」
くらいのことは言って欲しかった。
結果として彼女は僕の演出ではなく、
「好きなようにやって」という様式の、
西谷の演出を選んだのだから。
そのことに対しての言い訳すら、
何1つなかったのだ。

そうした形で、
何の色気もなく僕と加奈子は一夜を共に過ごした。

その芝居の実際の加奈子の演技については、
気にはなったが結局観には行かなかった。

下総さんから酒を飲みながら話を聞き、
それほど関心のないような風を装いながら、
結局は途中から食い付きを見せ、
最後は結構荒れてしまった。

その流れの中で、
加奈子がその夜のことを、
下総さんに面白おかしく話していることを知った。

聞いた瞬間は、
本当に「おやおや」という感想しかなかった。

女の「秘密」というのは、
結局その程度のもののようだった。
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