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リディア・デイヴィス「話の終わり」 [小説]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日で診療所は休診です。

朝からいつものように、
駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。

休みの日は趣味の話題です。

今日はこちら。
話の終わり.jpg
リディア・デイヴィスはアメリカの女流作家で、
何冊かの短編集と1作の長編があります。
元々寡作の作家ですが、
翻訳されたものは更に少なく、
唯一の長編であるこの「話の終わり」と、
同じ翻訳者によって翻訳された、
「ほとんど記憶のない女」という短編集があるだけです。
2011年の時点で、
他に2冊の短編集が刊行の見込みと書かれていますが、
今のところ、実際にはまだ刊行はされていないようです。

ただ、翻訳されている2冊は、
いずれも抜群に面白くて、
一読虜になりました。

端的に言えば「意識の流れ」を、
やや通俗化して簡明な文章で綴ったもので、
ユーモラスかつシュールな感じがあるのが特徴です。

「意識の流れ」というのは、
人間の思考をそのままに文章化しようとした試みで、
ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフの著作は、
その代表です。

人間は誰でも自分の人生を、
1つの物語(ストーリー)として生きているので、
たとえばある人に一目ぼれをした、
と後から考えると思っていても、
実際にその初対面の瞬間に、
頭の中で流れている思考は、
後から考えた内容とは、
全く別個のもの、ということが通常です。
つまり、人間は起こった出来事を、
現在という時点で想起する時、
その出来事をそのままに思いだすのではなく、
自分に都合の良いように筋道を立てて、
物語に変えているのです。

そうした物語を文章化したものが、
通常の小説という形式ですが、
「意識の流れ」のスタイルというのは、
頭の中で「物語化」される前の思考の流れを、
そのままに記述しようという試みなのです。

僕は最初に入った大学で、
1年間は文学部に所属していて、
英文学科に進もうか、と言う感じだったので、
ジョイスやウルフは懐かしく馴染みのある名前です。

ただ、英語そのものが非常に凝っていて、
ジョイスの後半の作品などは、
造語を交えたりしているものなので、
基本的に翻訳で読む、と言う性質の作品ではありません。

通常の小説の面白みや仕掛け、ユーモアなどの要素も皆無です。

それに引き替えてデイヴィスの著作は、
英語は平易でシンプルで読み易く、
ジョイスやウルフに比較すれば、
通俗的ですが読者には親切な作品です。
それでいて、通常の物語的な要素もあり、
カフカの断章を思わせるような、
シュールな感じやユーモラスな感じもあって、
馴染み易いのが特徴です。

最初に翻訳されたのが短編集で、
本国の出版は1997年ですが、
翻訳は2005年に出版されました。
こちらです。
ほとんど記憶のない女.jpg
これは51編の短編からなる短編集で、
「ほとんど記憶のない女」という題名が、
謎めいていて魅力的ですし、
マグリットの絵を用いた装丁も、
興味を惹きます。

短編は短いものは数行で、
長めのものは通常の短編くらいの長さです。

表題作の「ほとんど記憶のない女」を読むだけで、
こうしたものの好きな人は虜になると思います。

平易な文章の中に、
意外に奥深い世界があって、
語り手である作者の性格が、
如何にも女性的で愛らしく繊細で、
それでいて意地悪でひねくれてもいるので、
その語り口だけで浮き浮きした気分になるのです。

面白かったので原作のペーパーバックも買いました。
忠実な翻訳ですが、
原作の英語を読むと、
より平易な言葉のみを選んでいることが分かり、
言葉が頭の中で展開されてゆくように、
シンプルな文章が繰り返されながら、
少しずつその姿を変えてゆくのが、
よりはっきりと分かります。

翻訳は上手いのですが、
日本語の口語文には英語のようなリズムがないので、
原作のリズミカルな感じは、
矢張り翻訳では消えてしまっています。

後、原作と翻訳では作品の配列は変わっています。

そして、2010年翻訳が出版されたのが、
著者の唯一の長篇の「話の終わり」です。

これは実際の刊行は1995年ですから、
「ほとんど記憶のない女」より前、ということになります。

「話の終わり」は作者自身がモデルと思われる大学の教員の女性が、
その大学の学生の男に恋をして、
しばし同棲し、その後別れて別の男性と結婚する、
というまでの話です。

半ば私小説に近いものなのだと思いますが、
ストーリー自体に面白みはあまりありません。

ただ、このシンプルな話を、
現在の時点から主人公が小説化しようとして、
その小説の一部と主人公の回想、
そして現在の意識の流れが、
ないまぜになって展開されるのです。

ああ、如何にもデイヴィスだな、
と言う感じがしますし、
ウルフやジョイスの作品に部分的には拮抗するような、
重厚感があります。

特に辛い心の傷を可視化させ、
それが次第に静寂の中に溶けてゆくような後半の記述には、
本物の文学のみが持つ輝きがあります。

難点は短編のような軽味やユーモアには乏しいので、
前半の繰り返しを読みとおすのは、
かなり忍耐を必要とする、ということです。

全ての方にお勧め出来る作品ではなく、
まず「ほとんど記憶のない女」を手に取って頂いて、
ご自分の嗜好に合えば、
「話の終わり」に進んで頂くのが良いように思います。

その後で「ほとんど記憶のない女」を読み返すと、
そのそこかしこに、
「話の終わり」の残滓が潜んでいて、
ああそうか、ここはこうした話だったのね、
と改めて腑に落ちる感じがあるのです。

2007年の未訳の近作「Varaieties of Disturbance」には、
学術論文を模した形式の小説なども含まれていて、
そうしたアイデアは僕も秘かに温めていたので、
ますます侮れない感じがするのです。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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