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ワーグナー「ラインの黄金」(ザルツブル・クイースター音楽祭 in Japan) [オペラ]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です

休みの日は趣味の話題です。

今日はこちら。
ラインの黄金.jpg
サントリーホール30周年の記念として、
ザルツブルク・イースター音楽祭来日公演が企画され、
そのメインの演目として、
ワーグナーの「ラインの黄金」が、
ホール・オペラとして上演されました。

今やドイツを代表するワーグナー指揮者の、
クリスティアン・ティーレマンが指揮をして、
オケはシュターツカペレ・ドレスデン、
ヨーロッパで活躍する一線の歌手を揃えた、
これぞ本場の本物というワーグナーです。

「ラインの黄金」は休憩なし2時間半の1幕なので、
かなり聴く側としてはペース配分がきついのと、
コスチュームプレイ的で、物語るオペラ、という感じなので、
「これぞ力押し」というようなワーグナーの見せ場が乏しく、
正直このオケとメンバーであれば、
「ワルキューレ」辺りが聴きたいな、
とは思うのですが、
ホール・オペラという構成であると、
この選択が仕方のないところなのかも知れません。

ホール・オペラというのは、
サントリーホール独自の特殊な形式で、
普通コンサートホールでのオペラは演奏会形式と言って、
オーケストラの前もしくは後方に、
普通にドレスアップした歌手が並び、
演技はせずに歌のみを「演奏」する、
という方法で行われることが多いのですが、
ホール・オペラは簡単ですが衣装も着け、
演技もしながら歌手が歌うという、
簡略化されたオペラ、
セミ・オペラとでも言うべき性質のものです。

僕はこの中途半端な様式が好きではありません。
演出が変に頑張って、
歌手が中途半端に芝居をしたり、
あちこちで歌うので、
音楽に却って集中の出来ないことが多いからです。

今回の場合は、
オケの後方、通常は背面の客席があるところに、
2階建てのような舞台を組んで、
その上でやや簡素な衣装を着けた歌手が、
演技をしつつ歌うという演出になっていました。

かなり客席から歌手が遠く、
見上げるような感じになりますし、
工事現場の足場のようなところで、
窮屈そうに危なっかしく歌っているのも、
不安定で如何なものかな、
という気がします。

ただ、意外と上の後方で歌手が歌い、
前方にオケがあるというバランスは音的には悪くなく、
後方の上からの声と、
正面からのオケの音が、
いい具合に分離されて聞こえるので、
両方がクリアで綺麗に交錯するのは新鮮に感じました。

ただ、オケが前に出る部分はそれで良いのですが、
どうしても歌手の声の迫力はなくなるので、
歌手が主体の場面は今一つの感じになっていました。
小さな舞台で窮屈に演じるので、
歌手陣は思ったほど自由に歌えていなかったと思います。

どうもホール・オペラは苦手です。

ただ、演奏は矢張り抜群に素晴らしくて、
この迫力はさすがに本場のワーグナーの底力を感じました。
ダイナミックレンジが非常に広く、
繊細な場面は歌手に静かに寄り添いながら、
押すところは豪快な力押しで、
壮麗な音の城郭を築き上げます。
ライトモチーフの1つ1つが、
極めて雄弁かつ個性的で、
音色がそれぞれ異なっているという点にも感銘を受けました。

願わくばワーグナーの他のオペラも是非、
と思いますが、
なかなか実現は難しいのかも知れません。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

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よろしくお願いします。

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  • メディア: 単行本


ワーグナー「ワルキューレ」(2016年新国立劇場シーズンオープニング) [オペラ]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は土曜日で、
午前午後とも石原が外来を担当する予定です。

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
ワルキューレ.jpg
新国立劇場の今季のシーズンオープニングである、
ワーグナーの「ニーベルングの指環」の第二部(第1日)、
「ワルキューレ」を聴いて来ました。

今年はワーグナーの上演は非常に充実していて、
世界最高水準と言って良い舞台が続きます。

4月の東京・春・音楽祭が、
ヤノフスキの指揮にNHK交響楽団の演奏、
そして世界的な第一線の歌手が揃う豪華な布陣で、
「ジークフリード」の見事な演奏を聴かせ、
それから今回の新国立劇場の「ワルキューレ」があり、
11月にはウィーン国立歌劇場の同じ「ワルキューレ」、
そしてザルツブルグ・イースター音楽祭の来日公演として、
ティーレマンが「ラインの黄金」を振ります。

これはもう陶然とするような、
物凄いラインナップですし、
今のところその出来栄えも期待を裏切らないものです。

「ラインの黄金」からこの「ワルキューレ」、
そして「ジークフリード」、「神々の黄昏」と続く、
楽劇「ニーベルングの指環」は、
全ての作品が素晴らしいのですが、
中でもまとまりという意味では一番で、
単独での上演も最も多いのが、
この「ワルキューレ」です。

オープニングの弦の響きからワクワクしますし、
1幕は「トリスタンとイゾルデ」を思わせる2重唱があり、
2幕には長大な夫婦の痴話喧嘩など、
他のワーグナー作品にはあまりない雰囲気や、
天界と地上を結ぶダイナミックな生と死の構図があり、
3幕は有名な「ワルキューレの騎行」から始まって、
怒涛の展開で感動的な大フィナーレへと続きます。

僕は二期会の公演で聴いたのが生で接した最初で、
それからベルリン・ドイツ・オペラのチクルス上演で、
ワーグナーの虜になり、
その後キース・ウォーナー演出による、
ポップで奇想に満ちた新国立劇場の2回の上演
(「ワルキューレ」は聴いたのは1回のみ)、
マリインスキー・オペラによるチクルス上演、
ドミンゴの出たメトロポリタン・オペラの上演と来て、
最近ではヤノフスキ指揮で演奏会形式の、
東京・春・音楽祭の公演が、
代役がマイヤーでオケはN響という豪華版で、
音楽的には圧倒的で印象に残っています。

僕はこの作品は大好きで、
死ぬ前に最後に1本のオペラを生で聴くとすれば、
この「ワルキューレ」かな、
と今は思っています。

今回の上演は新国立劇場としては、
3回目の指環の連続上演の一環ですが、
演出はオリジナルではなく、
フィンランド国立歌劇場のゲッツ・フリードリヒ演出を、
借りて来たものです。

これは昨年の「ラインの黄金」の舞台が、
原作に比較的忠実で端正な演出が、
個人的には好印象で、
今回は「ワルキューレ」をどう料理してくれるのかと、
期待に胸を膨らませて劇場に足を運びました。

今回もなかなか考え抜かれた演出で、
借り物とは言え、
ただ持って来ただけ、という感じはしません。

個々のキャラクターの絶望的な孤独の瞬間のようなものに、
スポットを大きく当てていて、
1幕のジークムントが絶望の中で救いを求める一瞬であるとか、
不自由な神の王であるヴォータンが、
「世界など滅んでしまえ」と嘆息する瞬間、
2幕でジークムントが死を確信する瞬間などが、
指揮の飯森さんの手さばきによって強調され、
それが連動して絞り込まれるスポットや空間構成で強調されます。

孤独と裏腹な結合の象徴としての抱擁の場面が、
強調されているのも特徴で、
2幕のジークリンデとジークムントの死を覚悟した抱擁の場面など、
通常は退屈に感じる場面なのですが、
今回は目から鱗の感動がありました。

今回の演出の優れているところは、
台本に書き込まれていることを、
そのままに観客に分かるように視覚化していることで、
1幕ではジークリンデがフンディングに眠り薬を飲ませる動作なども、
ちゃんと描かれています。

ただ、唯一おかしいと感じたのは、
例の「ワルキューレの騎行」で、
何か場末のショーパブみたいな雰囲気で、
連れてきた死体の英雄と、
セックスをするような下品な描写には、
ガッカリする思いがありました。

「ワルキューレの騎行」も個々のワルキューレが、
1人ずつ飛んでくるという段取りが、
ちゃんと台本には書いてあるのですが、
実際にそれが行われることは皆無で、
概ね太ったおばさんが岩山の上をヨロヨロ集団で歩いているか、
そうでないと今回のように、
中途半端なセックス描写が、
繰り広げられるような読み替え演出です。
個人的には今の技術であれば、
空飛ぶ馬に跨ったワルキューレが、
ビュンビュン舞台に飛んでくるような演出も不可能ではない筈で、
そうした演出を期待したいと思います。

個人的にはワーグナーは結構エッチだと思いますし、
東京・春・音楽祭の「パルジファル」演奏会式上演で、
魔女のお姉さんが舞台の正面にズラッと並んで誘惑の声を聴かせた時には、
絶対これがワーグナーの意図通りの効果だ、
と感じました。
ああいう感じが、
「ワルキューレの騎行」にも是非欲しいと思います。

ただ、今回のラストの岩山にブリュンヒルデが封印される場面は、
映像の炎と本物の炎、そしてスモークとレーザー光線の効果が素晴らしく、
僕が観た中では最も美しく、
それでいて原作通りの場面が現出された、
素晴らしいものになっていたと思います。

これは凄いですよ。

この場面だけでも今回の上演は観る値打ちはあると思います。

歌手陣は、
イレーネ・テオリンやエレナ・ツィトコーワという、
新国立のワーグナー上演を支えた女声陣が、
今回も良い働きを見せていて、
ジークムントのステファン・グールドも、
ベテランの初役ながら真摯な姿勢と、
素晴らしい美声を聴かせ、
ヴォータンのグリムスレイも悪くありません。

日本のワーグナー上演としては最高水準です。

オケは東京フィルというのはどうしても元気が出ないのですが、
1幕はミスタッチが多く、
オープニングのチェロもヘロヘロで、
肝心のところで音程のミス、
というガッカリの立ち上がりであったのですが、
尻上がりに調子が出て、
3幕は名演と言って良い水準に達していたと思います。
ただ、個人的には矢張り好みの音ではありません。

いずれにしてもこの指環のシリーズは素晴らしくて、
今回も堪能しましたし、
これからも非常に楽しみです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

ワーグナー「ジークフリート」(東京春祭ワーグナー・シリーズvol.7) [オペラ]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。

今日はこちら。
ジークフリード.jpg
桜の終わりくらいの時期に、
東京・春・音楽祭のメインの公演として、
ワーグナーの「ニーベルングの指環」の第2日、
「ジークフリート」が演奏会形式で行われました。

このシリーズは、
最近はワーグナーの作品をじゅんぐりに、
演奏会形式で毎年1作品ずつ上演しています。

2年前からは「ニーベルングの指環」の連続上演を、
マレク・ヤノフスキの指揮で行なっています。
オケはNHK交響楽団という他では望めない豪華版で、
キャストも世界の一流どころが顔を揃え、
昨年の「ワルキューレ」では、
代役として急遽大御所のマイヤーが、
ジークリンデに参戦しました。

オペラファンにとって、
年間随一の楽しみと言って過言ではありません。

演奏会形式というのは、
少し物足りない面はあるのですが、
ワーグナーの場合、
多くの演出は間抜けなコスプレのようなものか、
そうでなければ意味不明の読み替え演出なので、
音だけを聴いていた方がどれだけましか、
と思う事の方が多く、
最近は演奏会形式の方が心地良いのです。

今年のキャストは昨年の「ワルキューレ」と比べると、
若手主体でしたが、
世界で活躍する一流の歌手を揃えています。

全ての歌手が全力の歌唱で聴き応えがありました。
中でも声量抜群のアンドレアス・シャーガーが、
ジークリフリートにうってつけの迫力で、
ラストのブリュンヒルデ役エリカ・ズンネガルトとの二重唱は、
迫力と情感、そして繊細さを兼ね備えたアンサンブルが素晴らしく、
これぞワーグナーという愉楽に満ちていました。
オケも勿論素晴らしく、
ブリュンヒルデの覚醒の場面など、
背筋がゾクゾクするような興奮を味わうことが出来ました。

後特徴的であったのがミーメ役のゲルハルト・シーゲルで、
その美声に禿頭に汗をかいての熱演は、
従来のミーメのイメージを、
一新するような痛快さがありました。

ワーグナーを聴く楽しみに満ちた上演で、
来年の「神々の黄昏」が楽しみになると共に、
もう来年で終わってしまうのか、と思うと、
非常に残念でならないのです。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

2015年のオペラを振り返る [オペラ]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日までクリニックは年末年始の休診ですが、
在宅診療には出掛ける予定です。

少しずつ身体を慣らして、
明日にもってゆきたいところです。

休みの日は趣味の話題です。

今日は昨年のオペラを振り返ります。

昨年は次のオペラ(演奏会形式を含む)に足を運びました。

①神奈川県立音楽堂開館60周年特別企画「メッセニアの神託」
②新国立劇場「マノン・レスコー」
③東京春音楽祭「ワルキューレ」
④新国立劇場「椿姫」
⑤全国共同制作プロジェクト「フィガロの結婚」(野田秀樹演出)
⑥英国ロイヤル・オペラ日本公演「ドン・ジョバンニ」
⑦英国ロイヤル・オペラ日本公演「マクベス」
⑧新国立劇場「ラインの黄金」
以上の8作品です。

昨年は演劇が増えたこともあって、
オペラを聴く機会は減りました。

私的ベストスリーはこちら。
①神奈川県立音楽堂60周年特別企画「メッセニアの神託」
http://blog.so-net.ne.jp/rokushin/2015-03-07
2005年に神奈川県立音楽堂で上演された「バヤゼット」は、
今に至るまでの僕のオペラ体験で、
絶対1位の素晴らしい舞台で、
エウローパ・ガランテの素晴らしい演奏と、
超絶技巧を披露したジュノーの歌唱は、
今でも耳に焼きついています。
その10年後の今回は、
前回に引けを取らないメンバーが顔を揃え、
本当にワクワクした思いで音楽堂に足を運びました。

今回は何と言っても、
まだ若いユリア・レーシネヴァの超絶技巧が素晴らしく、
かつてのグルヴェローヴァを彷彿とさせるものがありました。
ただ、作品自体は「バヤゼット」より物語性があり、
前回の「超絶技巧歌合戦」のような、
純粋な魅力はありませんでした。
作品自体も猿之助の復活狂言のような、
パッチワークの寄せ集めで、
復活の意味がそれほどあるようには思えませんでした。
ジュノーは殆どアジリタを歌わず、
もう歌えないのかしら、と当日は思ったのですが、
後日に行われたリサイタルでは、
かつてとそれほど遜色のない超絶技巧を披露してくれたので、
少しホッとしました。

②東京春音楽祭「ワルキューレ」
これはタイミングが合わなくて記事にしなかったのですが、
ロバート・ディーン・スミスのジークムントに、
マイヤーのジークリンデという、
演奏会形式とは言え、
信じられないような豪華なキャストで、
フリッカにクールマンという勿体無いくらいの布陣です。
特にマイヤーは、
僕がこれまで聴いた中では一番良かったように思いました。
1幕はともかく圧倒的でした。
ただ、3幕はワルキューレ達を奥に並べてしまったので、
何か袖の近くでごちゃごちゃやっている感じで、
あまり盛り上がらなかったのが残念でした。
最近は、ワーグナーは演奏会形式の方がしっくり来るのですが、
「ワルキューレ」は一種のコスプレ劇なので、
ちゃんとした舞台の方が良いようにも思いました。

③新国立劇場「ラインの黄金」
http://blog.so-net.ne.jp/rokushin/2015-10-10
昨年から新しいリングが新国立で始まりました。
演出は借り物です。
ただ、これは歌い手に気を配って、
適度なエロスのある悪くないもので、
意外に良い演出を借りて来たな、という感じです。
現状は新国立劇場はあまり自前の新演出などしない方が、
良いのではないかと思いました。
歌手も揃っていましたし、
来年も楽しみになりました。

以上が私的ベストスリーです。

声楽のリサイタルは、
①アンドレア・ロスト
②ヴィヴィカ・ジュノー(エウローパ・ガランテ)
③田中彩子
④ヴィットリオ・グリゴーロ
⑤マリアンナ・ピッツォラート
⑥ヨナス・カウフマン
⑦バルバラ・フリットリ
を聴きました。
ジュノーが聴けたのはとても嬉しく、
フリットリも安定感がありました。
カウフマンは色々ありましたが、
矢張り本物で聴けて良かったと思いました。
グリゴーロはサービス満点でしたが、
大味で僕好みではありませんでした。

今年も良い舞台に出逢えれば人生の幸せです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

ヴェルディ「マクベス」(2015英国ロイヤル・オペラ日本公演上演版) [オペラ]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。
何もなければ1日のんびり過ごす予定です。

休みの日は趣味の話題です。

今日はこちら。
英国ロイヤル「マクベス」.jpg
もう先月の話なのですが、
英国ロイヤル・オペラの来日公演が行われました。
演目はヴェルディの「マクベス」と、
モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」で、
いずれもパッパーノの指揮による緻密な音楽と、
以前と比べると地味な感じはしますが、
充実した歌手陣の歌唱で、
まずまず観客の期待を裏切らない上演だったと思います。

演出は「ドン・ジョバンニ」が、
映像を駆使したかなり斬新なものであったのに対して、
「マクベス」は比較的オーソドックスな舞台でした。

ヴェルディの「マクベス」は、
シェイクスピアを原作としたヴェルディの最初の作品で、
基本的にはシェイクスピアの原作を、
ダイジェストの感じながら、
ほぼ忠実になぞるものになっています。

魔女は群衆で登場し、
戦火と圧政に苦しむ民衆も登場して、
民衆と魔女とが、
重ね合わされているような印象もあります。
魔女の集会でマクベスが予言を受けるところでは、
バレエが取り入れられています。

作品の核になるのはマクベス夫人で、
ドラマティックな迫力が必要とされる一方で、
コロラトゥーラのアリアもあり、
最後にはコンパクトながら狂乱の場も用意されています。

僕はこれまで新国立劇場での2回の上演と、
スカラ座の来日公演で「マクベス」を聴いていますが、
マクベス夫人の歌唱に関しては、
今回のリュドミラ・モナスティルスカというキエフ出身のソプラノが、
迫力と技巧双方を兼ね備えていて、
文句なくベストでした。

作品としても、
手紙を読むアリアから、
ダンカン王の暗殺に至る辺りの段取りを、
マクベス夫人の歌唱を主体に繋いで表現した部分が、
オペラとして最も良く出来ているように感じました。

主役のマクベスを歌った、
サイモン・キーンリサイドは、
以前と比べると大分枯れて来た印象で、
この役にはやや凄みが不足している感じはありましたが、
悪くない歌唱でした。

魔女は中途半端な衣装で、
迫力には乏しく、
ただの女声合唱というようにしか見えませんでした。
ただ、この作品の魔女の扱いは、
基本的にはこうしたものに近いのかも知れません。

ヴェルディの「マクベス」は、
バーナムの森が動く場面もありませんし、
マクベスの有名な独白も、
アリアにはなっていません。
シェイクスピアのストーリーに忠実でありながら、
印象としては「イル・トロヴァトーレ」に近いようなイメージです。

ただ、端から別物として考えれば、
聴きどころも多く、
長さも手頃なので、
最近は比較的気に入っている1本です。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

ワーグナー「ラインの黄金」(新国立劇場2015/2016シーズンオープニング) [オペラ]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は土曜日で、
午前中から2時までは石田医師が、
2時以降は石原が外来診療に当たる予定です。

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
ラインの黄金.jpg
新国立劇場のシーズンオープニングとして、
ワーグナーのニーベルングの指環の第一作、
「ラインの黄金」が今上演されています。

新国立劇場の「ニーベルングの指環」は、
キース・ウォーナーによるオリジナルの演出が、
神の国をアメリカに見立てたポップで壮大な演出が面白く、
僕はとても気に入っていたのですが、
1回再演された時点で、
セットは廃棄されてしまったようです。

非常に残念です。

新たな上演となる今回は、
ドイツの演出家がフィンランドの歌劇場で上演したもののレンタルで、
オリジナルではありません。

少し残念な感じはしますが、
その一方新国立劇場のオリジナルの演出は、
正直酷いものが多いので、
ヨーロッパの二線級の歌劇場と、
新国立劇場は同レベルだと思いますから、
予算の問題も考えれば、
レンタルの方が間違いがない、
ということは言えそうです。

結論から言うと、
なかなか見応え、聴き応えのある、
娯楽性に富んだ、
面白い上演だったと思います。

演出は何処かで見たような感じで、
可もなく不可もなくというところがあります。
ベルリンのクプファー版に、
蛍光灯が上下するセットは似ていますし、
衣装も部分的に似ていますが、
巨大な書割みたいなセットは、
ウォーナーの新国立版にも似ています。
妖精の衣装などは結構エロチックで良い感じな反面、
エルダの衣装は古めかしい魔女の感じなど、
統一感には欠けています。

ただ、大ぜりを使って、
地下の世界と地上と天界とを表現するのは、
分かりやすくて良いと思いますし、
舞台機構が上手く機能しています。
地下の小人の群れなどは、
人数も多くて迫力があります。

総じて、作品に書かれていることを、
そのまま実現しよう、
という姿勢が好感が持てます。

たとえば、
フライアの姿が見えなくなるまで黄金を積み上げろ、
と巨人が命じるところなど、
普通はきちんとやらないのですが、
今回の演出では、
ちゃんと黄金を積み上げて、
フライアの姿を隠しています。

雷神がラストで雲を呼ぶと、
実際に上空で白いスモークが盛大に出現します。
こうしたことも、
最近の無理矢理読み替え演出ではやらないので、
面白く感じました。

唯一、アルベリヒが変身した大蛇は、
ただの幕が下りて来るだけなので、
ガッカリさせられました。
ただ、このパートが満足の行く演出というのは、
未だかつて観たことがありません。

音楽もなかなかで、
スローなテンポの中にメリハリがあり、
歌手陣も頑張っていたと思います。

かなり通俗的な解釈なのですが、
キャストがしっかり芝居をしているので、
見ていて面白く、内容に引き込まれます。

特にアルベリヒのトーマス・ガゼリと、
風格充分のローゲのステファン・グールドは、
抜群の歌役者ぶりを見せていて、
作品のテーマを、
非常に明晰に見せていたと思います。
歌もなかなかでした。

前回の新国立リングでも歌った、
ヴォータンのラジライネンは、
堅実な歌い廻しでしたが、
大分年を取ったなあ、という感じはありました。

総じて娯楽性のある分かり易いリングで、
少し安っぽい感じはありますが、
今の新国立劇場にはフィットしていると思います。
楽しく聴けましたし、
来年以降も非常に楽しみです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

モーツァルト「フィガロの結婚」(2015年野田秀樹演出版) [オペラ]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から疲れ切っていてぼんやりとして、
それから今PCに向かっています。

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
フィガロの結婚.jpg
モーツァルトの「フィガロの結婚」を、
井上道弘さんが総監督となって野田秀樹さんが演出し、
国内外の一線級に近いオペラ歌手が集まり、
演劇アンサンブルまで加わった話題の公演が、
先日ミューザ川崎で上演されました。
チケット完売の盛況です。
公演は秋には東京芸術劇場でも2日行われます。

東北から九州まで、
全国10カ所で公演が行われ、
オーケストラや合唱は、
その土地の団体が参加する、
という特殊な形態です。
本来は合唱とオケは音楽の要ですから、
同じメンバーで担当するべきだと思いますが、
各地に予算面でも協力してもらい、
公演を成立されるために、
こうした形態が不可欠であったのだと推察されます。

関東圏の公演については、
東京交響楽団が担当しています。

ポイントは矢張り野田秀樹さんの演出が、
どのようなものになるのか、
というところにあって、
野田さんは以前、
新国立劇場でヴェルディの「マクベス」を演出し、
僕はこれは仰々しくて大好きだったのですが、
一般的には「音楽を理解していない演出」として、
音楽ファンの点は辛いものでした。

「マクベス」は野田さんのこれまでの舞台の中で、
最も潤沢に予算を使った、と言う点でも、
歴史に残る上演だったと思います。
黒子に操られる骸骨が山のように登場し、
ひまわりの花に埋め尽くされた巨大な舞台の彼方から、
ハウルの動く城のような、
巨大な鉄兜の城がせり出して来ます。

その圧倒的なビジュアルだけで、
個人的には大満足でした。
確かにヴェルディの音楽より、
原作のシェイクスピアの「マクベス」を元にした演出は、
音楽と乖離する感じのあったことは確かです。

しかし、欧米の今のオペラ演出は、
もっとヘンテコで無理筋のものが山のようにありますから、
引っ越し公演だとそうしたものでも有難がって、
野田さんの演出であると非難をする、
というのは筋違いのように当時は感じました。

それでは今回の演出はどのようなものだったのでしょうか?

以下ネタバレを含む感想です。

今回の演出はかなり内容に踏み込んだもので、
伯爵と伯爵夫人、そして小姓という3人の海外キャストが、
幕末の日本に黒船で乗り込んで来る、
という発端から、
舞台は一応長崎で展開される、
という趣向になっています。

原作の主従関係を、
欧米人と日本人の関係として、
読み替えようという趣向です。

台詞や歌詞も、
日本人のみの場面では、
野田さん自身のダイアログによる日本語が使用され、
海外キャストは基本的にイタリア語の原語版で歌います。
これは従者のみの場面では、
母国語で話すけれど、
主人がいる時には、
従者も主人の国の言葉で話す、
ということで辛うじて正当化されています。
訳詩の字幕も野田さんのものなので、
言葉には統一感があります。

ただ、日本語にし難いアリアは、
日本人の歌手でも原語で歌う場合もあり、
アンサンブルでは日本語とイタリア語が、
まぜこぜになっているところもあります。
つまり、趣向が貫徹されているのか、と言うと、
そうでもない部分もあるのです。

こうした趣向には事前の説明が必要なので、
原作にも2幕の終わりにちょこっとだけ登場する庭師の役を、
ナイロン100℃の役者である廣川三憲さんに演じさせ、
彼の説明台詞の後で、
彼が竹を2本鳴らすことにより、
その場面が始まる、という構成になっています。

それ以外にも演劇的な趣向は極めて盛り沢山です。

金屏風のような色彩が散りばめられた、
3個のマジックの剣刺しの道具のようなボックスが、
舞台には最初から置かれていて、
そのうちの1つは実際にネタで剣刺しにも使われます。

舞台からの入退場やその場面のドアなどは、
そのボックスを利用して行われます。
ボックスに開けられた穴から手が伸びて来て、
外にいる女性を抱き締めるというような、
「エッグ」を思わせるような趣向もあります。

アンサンブルのダンサーによって、
長い竹が運び込まれ、
それがラストには森の木々になりますし、
それ以外にも鳥居になったり、
また多くの場面で構図を切り取る「枠」の役割を果たします。

ばら撒かれた赤い花が処女喪失の出血を表現する、
つげ義春の「紅い花」みたいな趣向もありますし、
アンサンブルが竹竿に吊るされたような集団の動きをしたり、
文楽まがいの人形振りがあったりと、
如何にも野田演出という、
遊び心が全編に横溢しています。

衣装はいつものひびのこづえさんですから、
センスのあるポップで色彩豊かな世界です。

非常に面白い趣向だと思います。

ただ、それが成功しているかと言うと、
ちょっと疑問もあります。

まずそもそもの黒船云々の設定に関しては、
もろ「蝶々夫人」ですから、
「蝶々夫人」をアレンジするのであれば、
これで問題はないのですが、
「フィガロの結婚」を幕末(?)の長崎の話にするのは、
かなり強引であちこちに齟齬があるように感じました。

庭師を利用する、というアイデアは面白いのですが、
彼は基本的には殆ど筋に絡まない存在なので、
最初は良いのですが、
後半はあまり役割がなかったように思いました。

バルバリーナ(劇中バルバ里奈)が、
庭師の娘で、
3幕の終わりで伯爵に処女を奪われ、
4幕の初めに悲痛な面持ちで、
「大事なものをなくした」という定番のアリアを歌います。
ボックスから出た瞬間に、
赤い花がバッと散るのも印象的で、
非常に面白い読み替え演出なのですが、
せっかくの趣向も、
その後に繋がりがないので、
浮いてしまったように感じました。

演出は概ね歌をリスペクトして、
歌い難いような場面作りはしていないのですが、
モーツァルトの音楽以外の、
PAや効果音を沢山使用するのが、
個人的には納得の行かない点です。

色々な物を舞台に散乱させて、
きちんとお片付けをしないのは、
野田さんの演出の昔からの特徴ですが、
今回も矢鱈と竹を鳴らす音を立てたり、
2幕のラストも音楽の終わりと共に、
バンと一回竹で床を鳴らします。
これは、原作の楽譜に音を加える行為なので、
やるべきではないと感じました。
伯爵は姿を隠した女性を見付けるために、
チェーンソーを持ち出し、
それが舞台でけたたましい録音の音を出します。
2幕の素敵なアンサンブルの最中に、
こんな酷い雑音はないだろう、
とこれも納得が行きませんでした。

ただ、これは総監督の井上さんが、
「これは駄目だよ」と言えば良いだけの話ですから、
許した井上さんに、
その責任の多くはあるように思います。

2幕後半のアンサンブルは、
「フィガロの結婚」の白眉と言って良い見事な音楽ですが、
ただのドタバタのように捉えられがちで、
雑に上演されがちな部分でもあります。

今回の演出ではチェーンソーや竹の音、
歌の素人の庭師の登場や、
日本語とイタリア語のちゃんぽんのパートと、
やや軽く見たような趣向が多く、
それを総監督も認めているのが、
とても残念に思えました。

野田さんは伯爵夫人のアリアなどでは、
節度のある歌を活かす演出をしているので、
これはもう理解不足から生じたことであり、
その責任の多くは、
矢張り音楽の責任者にあるように感じました。

オケは丁寧な演奏で悪くありませんでした。

歌手陣では、
伯爵役に地方公演も含めて、
ナターレ・デ・カロリスが出演してくれているのは、
素晴らしいことだと思います。
歌はいつも通りボチボチです。
伯爵夫人役のテオドラ・ゲオルギューも、
世界の歌劇場に出演している注目の若手の1人で、
極め付けの美形です。
オペラ歌手でこれだけ美しい人は、
まあ極めて希少です。
歌はこの役には少し軽い感じなのですが、
旬の声で堪能出来ました。
もう1人の海外キャストはカウンターテナーで、
通常メゾ・ソプラノの歌うことが殆どのケルビーノを歌い、
非常に新鮮に感じました。
メゾより絶対良いと思います。

日本人歌手も充実した布陣で、
フィガロに演劇畑に近い大山大輔さんを置き、
マルチェリーナに森山京子さんもなかなか豪華です。

中でもハイカラさん的振袖姿で、
スザンナを演じ歌った、小林沙羅さんは、
如何にも野田芝居のヒロインと言った、
容姿と演技を体現していて、
この作品の核を成した快演でした。
羽野晶紀さんかと思いました。
野田さんもさぞご満悦だったことと推察します。
ただし、歌は今一つに感じました。

総じて非常に面白く刺激的な公演で、
一見、一聴の価値は確実にあります。

ただ、これが完成形とは思えず、
ただの思い付きに終わった部分もあり、
また音楽的な完成度は、
もっと高まった可能性があるので、
秋の公演にも期待したいと思います。

今日はもう1本、歌舞伎の話題に続きます。

ヴェルディ「椿姫」(2015年新国立劇場上演版) [オペラ]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日の3本目の記事はオペラの話題です。

今日はこちら。
椿姫.jpg
今週まで新演出の「椿姫」が、
新国立劇場のレパートリーとして上演されました。

これは新国立劇場開場後、
最初の「椿姫」の上演が、
アンドレア・ロストとインヴァ・ムーラという、
タイトルロールの豪華ダブルキャストで開幕し、
その後数回上演されましたが、
演出は変わりませんでした。

比較的スタンダードなものでしたが、
特に1幕で舞台が横移動してスライドするのが、
あまりスマートな感じではなく、
また全編紗幕を使っていました。
これは要するに、
全てPAを使用した舞台になっていたことを、
意味しています。

そんな訳で僕もこの演出は嫌いだったので、
変わるのは良いのですが、
今回はまたかなりの変化球で、
正直あまり感心した演出では、
なかったように感じました。

「椿姫(ラ・トラヴィアータ)」というのは、
ヴィオレッタという高級娼婦が、
純な若者と恋に落ちて、
田舎暮らしをするものの、
その若者の父親から、
家名に関わるので別れてくれと言われて、
「愛想尽かし」をし、
最後は結核のために寂しく死んで行く、
という物語です。

1幕は高級娼婦の華やかな生活と、
若者と恋に落ちるまでを描き、
2幕1場では田舎での楽しい生活と、
恋人の父親の登場による破局と愛想尽かし、
2場では社交界に戻った娼婦を若者が追いかけて来て、
波乱の悲劇になり、
3幕は死の間際の娼婦の孤独が描写されます。

これがヴェルディの代表作かと言うと、
ちょっと疑問の点もあるのですが、
最も知られた作品の1つであることは間違いがなく、
聴きどころの多い、
完成度の高い作品であることも間違いがありません。

最後に孤独の中で死に瀕する主人公の元に、
若者とその父親が駆け付け、
2人に看取られながら、
主人公は昇天するのですが、
そこがちょっと唐突な感じもあるので、
「いやいやこれは主人公の妄想であって、
本当はたった1人で死んだのではないか」
という、個人的には下らない考えで演出する人がいて、
今回の新演出はそのパターンです。

ラスト、中央にいるヴィオレッタの背後には青い紗幕があって、
他の人物は全て紗幕の向こうからしか歌いません。
最後は本当はバタリと倒れて死ぬ筈なのに、
オケピットに張り出した舞台まで出て来て、
手を上に差し上げて終わります。

要するに紗幕より前は死の世界で、
そこからヴィオレッタはこれまでを回想していた、
という趣向です。

こういうのが好きな方もいると思うので、
これはもう趣味の問題ですが、
3幕はただでさえ動きの少ない場面なのに、
ヴィオレッタ以外のキャストは紗幕の後ろなので、
面白みが乏しく、
最後は死なないといけないのに、
腕など振り上げているのですから、
頭でっかちで、
如何にもまずいというのが個人的な感想です。

オークストラピットへの張り出し舞台は、
上手く使えばとても面白いと思うのですが、
ヴィオレッタ役のソプラノは、
慣れない演出にやや戸惑い気味で、
堂々と前に出て歌う、という感じではないので、
何か見ている方が恥ずかしい感じになってしまいました。

キャストはヴィオレッタ役のヴェルナルダ・ポプロが、
若手の注目株ということで期待したのですが、
水準的な歌唱ではあるものの、
コロラトゥーラもボチボチくらいの出来で、
興奮を感じるようなものではありませんでした。
3幕は悪くなかったと思います。

総じてこんな演出ならない方がまし、
という感じの作品で、
ガッカリした思いで劇場を後にすることになりました。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

プッチーニ「マノン・レスコー」(2015年新国立劇場上演版) [オペラ]

今日2本目の記事はオペラの話題です。

それがこちら。
マノン・レスコー.jpg
新国立劇場のレパートリーとして、
プッチーニの初期の出世作で、
それほど上演頻度の多くない「マノン・レスコー」が上演されました。

これは元々は2011年の3月に上演の予定で、
直前まで準備が進んでいたのですが、
震災の直後であったため、
直前で中止となりました。
それが4年後にほぼ同じキャストとスタッフの元に、
再度の上演に漕ぎ着けた、という、
ある種の因縁のある公演だったのです。

歌手のメインはソプラノとテノール、バリトンの3人ですが、
いずれも海外で主に活躍している海外キャストで、
一流歌劇場のプレミエというクラスではありませんが、
それに次ぐくらいのメンバーが揃っていて、
なかなか充実した布陣です。
それが再結集した、というだけで、
かなり奇跡的なことで、
その裏にはスタッフの執念のようなものが感じられます。

今回特にテノールのグスターヴォ・ポルタさんは
非常に頑張りを見せていて、
会見の画像でもバリトンのダリボール・イェニスさんと共に、
前回の上演中止が如何に無念であって、
今回に掛ける意気込みが如何に強いものであるのかを、
熱っぽく語っていました。
そして、公演での圧倒的な熱演は、
その言葉を明確に証明するものだったと思います。

一方でソプラノのスヴェトラ・ヴァッシレヴァは、
2001年のフィレンツェ歌劇場の来日公演で、
グルヴェローヴァとダブルキャストで「椿姫」のヴィオレッタを歌った、
当時気鋭のソプラノで、
その時は「その割には…」という歌唱でした。
その後もコンスタントに活躍をされていますが、
当初の期待ほどは、
花形にはならなかった、という感じがあります。
何か貪欲さに欠けるところがあるのかも知れません。
彼女は舞台宣伝の画像でも、
前回の中止の件には、
あまり触れたくない、という印象でした。

作品の「マノン・レスコー」は、
プレヴォーによるフランスロマン主義の文学の代表作で、
発表当時から、
演劇、オペラ、バレーなどとして、
何度も舞台化がされている作品ですが、
現在も上演がされているのは、
このプッチーニ版とフランスのマスネ版の2種のオペラ、
そしてバレーの3種類のみです。

オペラの成立はフランスのマスネによるオペラの方が早く、
それから数年後に今回のプッチーニ版が上演されました。

マスネ版の方がより原作には忠実ですが、
ラストはアメリカの荒野にまでは行きません。
フランスのままで終わりになります。
一方でプッチーニ版は登場人物を減らして、
シンプルな3角関係めいたものに再構成し、
その代わりラストはアメリカの荒野を彷徨います。

原作の面白みは、
マノンが次々と相手を変えて恋愛を繰り返し、
それにお間抜けで純粋な青年が、
何度も裏切られながら、ストーカー的に後を追う、
というところにあるのですが、
プッチーニ版は金持ちと一旦は一緒になったマノンが、
その後は青年との純愛に身を捧げる、
というニュアンスのものになっています。

つまり、基本的には原作とは別物です。

作品の魅力はともかく2人のカップルが、
全編歌いまくるというところにあり、
特にその後のプッチーニの作品と比較すると、
テノールの歌が多いのが特徴です。

そんな訳で今回の上演では、
乗っているテノールのポルタが、
頑張って歌いまくるのが聴きどころで、
彼の熱唱が舞台を支えていました。

相手役のヴァッシレヴァも堅実な歌で悪くなく、
ワーグナーの影響も窺える、
肉食系の2重唱の連続が、
とても心地良く感じました。

舞台装置は海外からのレンタルで、
かなり貧相な感じのものなので、
何とも言いようがないのですが、
低予算化した新国立では、
この路線で止むを得ないように思いますし、
お金を掛けたオリジナルの新制作と称するものが、
極めて低レベルの成果にしか終わっていないので、
むしろ今回のような方が、
安心して聴くことが出来ます。

新国立劇場のオペラ上演の水準作としては、
悪くない上演だったように思います。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

ヴィヴァルディ「メッセニアの神託」(ビオンディ再構成版日本初演) [オペラ]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から意見書など書いて、
それから今PCに向かっています。

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
メッセニアの神託.jpg
先日神奈川県立音楽堂の開館60周年記念公演として、
ヴィヴァルディのバロック・オペラ「メッセニアの神託」が、
2回のみ上演されました。

これは本当に待望の公演で、
個人的には今年一番の楽しみでした。

神奈川県立音楽堂は、
横浜の丘の上にある古いホールで、
上野の文化会館をうんと小ぶりにしたような雰囲気ですが、
時々思い切った魅力的な企画を実現させてくれます。

中でも2006年にたった1回のみ上演された、
ヴィヴァルディの「バヤゼット」は、
イタリアの気鋭のバロック音楽アンサンブル「エウローパ・ガランテ」が、
音楽監督ファビオ・ビオンディの采配による、
ワクワクするような躍動感ある演奏を聴かせ、
ジュノーやバルチェローナを始めとする、
綺羅星の如き歌手陣が、
名唱を披露しました。

僕がこれまで生で聴いた中では、
日本のオペラ上演で最高の舞台だったと断言出来ます。

今回の「メッセニアの神託」は、
同じビオンディの「エウローパ・ガランテ」が音楽監督を務め、
「バヤゼット」で最高の歌唱を聴かせたヴィヴィカ・ジュノーが、
2006年以来の再登板。
それに、若手では最高のアジリタ歌いと世評の高い、
ロシアのメゾ、ユリア・レーシネヴァが加わります。

ジュノーは最近あまり活躍の噂を聞かないので、
9年の歳月でどう変わったか変わっていないのかは心配でしたが、
レーシネヴァの前評判は抜群なので、
それだけでも期待は高まります。

実際の観劇後の感想は微妙なところで、
前回のジュノーを彷彿とさせる、
レーシネヴァの超絶技巧の歌唱は、
予想を上回る興奮がありましたが、
ジュノー自身は主役ではあるものの、
超絶技巧の披露はありませんでしたし、
頑張っていましたが、
ブランクを感じさせる歌唱でした。

作品自体はヴィヴァルディの完全なオリジナルということではなく、
バロックアリアの名曲を、
あちこちから集めて来て、
残っている資料から再構成したもののようです。
ストーリーは分かっていて、
どういうアリアが使われていたのか、
というような点についての資料は残っているのですが、
オリジナルの台本も楽譜も失われているので、
あちこちの曲をアレンジして、
ビオンディさんがパッチワークのように繋ぎ合わせて、
それらしい作品にしているのです。

先代猿之助が創作した復活狂言に良く似ています。
あれも一応原作は古典にあるのですが、
実際には多くの場面は有名な作品からアレンジして流用し、
繋ぎ合わせて1つの作品にしたものなのです。

ビオンディさんのプレトークでは、
こうしたオペラはそのまま上演すれば5時間くらい掛かり、
それでは現代人の生理には合わないので、
こうしたアレンジをして上演しているのだ、
というような話があり、
猿之助も同じようなことを常日頃言っていたことを思い出しました。

洋の東西を問わず、
古典を愛しそれを現代に復活させようと考える藝術家の心性というものは、
変わりがないということかも知れません。

こうした藝術家を僕は敬愛します。

ポイントは「古典への愛」に尽きるので、
それを基本に置いた上で、
後は極めて大胆に作品をアレンジするのです。

今回の作品はただ、オペラ・セリアとしての骨格が明確にあり、
演劇的な要素が強いので、
それが個々の歌手のアリアの技巧を楽しむ、という、
バロックオペラの愉楽と、
必ずしもうまく癒合していない、
という欠点があります。

前回の「バヤゼット」は、
もっとストーリー性の薄い、
はっきり言えば、どうでも良いような物語しかないので、
純粋な歌手の歌合戦的な妙味があり、
それに徹していた感じがあって面白かったのですが、
今回の作品はストーリーに合わせて歌がある、
というスタイルで、
ストーリー重視の後年のオペラに近いので、
歌合戦にするのか、ストーリー重視でいくのかが、
不鮮明になっていました。

前回の「バヤゼット」では、
歌手はアリアの時は、
基本的に棒立ちで正面を向いて歌うのです。
物語はアリアの間にあって、
その間はお芝居をするのですが、
アリアになれば、
その歌手のソロステージになる訳です。
アリアが終わると歌手は退場しますが、
拍手が多ければ、歌手は再び舞台に戻って来て、
カーテンコールが行われ、
それが終わってから、
次のお芝居パートに進む、という構成でした。

それが今回はアリアの途中でも、
それが舞台にいる相手に向けられたものであれば、
芝居をしながら歌を歌いますし、
アリアの後で拍手があっても、
再登場してカーテンコールをする、
というようなことはしません。

アリアがお芝居の一部である、
というスタイルが一貫していれば、
それはそれで良いのですが、
2幕7場でレーシネヴァが、
技巧を駆使した超難易度のアリアを歌い、
それがまあ今回のメインイベントなのですが、
そのアリア自体は作品からは完全に浮いています。

つまり、そのパートだけは、
「バヤゼット」と同じ歌合戦のスタイルなのです。

このパートが一番盛り上がったという事実は、
観客が求めているのも、
結局歌合戦である、ということを示しているように、
僕は思います。

ストーリーに歌が従属するオペラは、
そうしたオペラに任せておけば良いので、
このバロックオペラの企画は、
もっとその趣旨を鮮明にし、
心浮き立つ一流歌手の歌合戦で、
良かったのではないかと思うのです。

ビオンディさん率いるエウローパ・ガランテの演奏も、
レーシネヴァの超絶技巧アリアのサポートをする部分が、
最もその資質が良く現れ、
即興性を含んだ、
心躍るような演奏を聴かせてくれました。
リズムが歌手と演奏で要所でバシッと合うのですが、
その小気味よさなど、
他にはない快感です。

その一方で演技の感情を表現するような音としては、
あまり雄弁ではなかったように思います。

演出は能の様式を取り入れて、
登場人物が全て扇を持ち、
それを感情表現に使用するような、
和洋折衷のスタイルですが、
衣装などなかなか綺麗に美的センスのある仕上がりで、
そう悪くありませんでした。

こういう試みは大抵は大失敗するので、
その意味では稀有の成功例と言って良いかも知れません。

歌手の評価は、
この作品をどう捉えるのかによっても、
違って来るように思います。

レシーネヴァのアジリタは本当に素晴らしくて、
それだけで元は取って充分にお釣りが来るものだったと思います。
メゾというより、完全にソプラノの音域で、
本当に若い頃のグルヴェローヴァに遜色ない感じがあります。
実に自然で全く力むことなく、
精妙微細な音楽が、
口から心地良く、
神の泉の如くに流れ出て来ます。

現役最高のアジリタ歌いと言って、
間違いはないと思います。

ただ、作品からは彼女の歌は浮いています。

「バヤゼット」でのジュノーの超絶技巧は、
今回のレシーネヴァに遜色ない圧倒的な盛り上がりを生みましたが、
彼女の歌が、
全体から浮き上がっているような感じはありませんでした。

レシーネヴァは声質も今回の歌手陣では、
完全に1人異質ですし、
アリア自体も非常に唐突で作品世界から遊離しています。

この辺りに今回の上演の一番の問題があると思います。

「バヤゼット」の立役者のジュノーは、
かつてのアジリタの女王ですが、
ビジュアル的には充分まだ若々しく、
往年の女豹のような肢体も変わりがありませんでした。
その声質もかつてのカストラーテの役柄を歌うに相応しい美声です。
ただ、声の伸びは明らかになくて、
あまり最近は歌い込んでいない感じです。
また、演じた役柄は、
どちらかと言えばドラマチックな表現が求められ、
装飾歌唱は少ないものなのですが、
所々のアジリタのパートは、
明らかに音が粒だっていませんでした。

ただ、役柄的には及第点ではあったように思います。

最も今回の上演に合っていたのは、
女王メロペを歌ったマリアンヌ・キーランドというメゾで、
感情をしっかり入れたドラマチックな歌唱が、
アリアでも持続され、
それでいて歌のフォルムは崩れておらず、
技術的にもまずまずでした。

総じて優れた上演で堪能することが出来たのですが、
全体のスタイルが未統一で、
「バヤゼット」の時のような類い稀な興奮には至りませんでした。

個人的には是非手練を揃えての、
藝術的な歌合戦のようなバロックオペラを、
また誰か上演してくれないかな、
と改めて思いました。

それでは今日は次に続きます。
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