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青年団「さよならだけが人生か」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は土曜日で午前午後とも石原が外来を担当します。

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
さよならだけが人生か.jpg
平田オリザさんの作・演出による青年団の公演、
「さよならだけが人生か」を先日鑑賞しました。

僕は平田さんの劇作はそう沢山は観ていません。
最初に観たのが96年の「火宅か修羅か」で、
その後数年は毎回足を運んだのですが、
矢張りあまり好みではなくて足が遠のきました。
スズナリの再演で観た「東京ノート」は、
確かに悪くないと思いました。

でも先入観は良くないと思い、
最近はまた時々観るようになりました。

今回の作品は1992年の初演で、
平田さん自身の言葉によれば、
劇団の出世作ということです。

これは結構難しくて、
正直作品の内包しているものを、
その通りに受け止められたという自信がありませんでした。

以下ネタバレを含む感想です。

舞台はある工事現場の作業員の詰め所で、
工事の最中に遺跡が発見され、
工事は一時休止となって、
遺跡の発掘作業が行われています。

そこで、その日の詰め所には、
手持無沙汰な工事関係者と、
文化庁の職員の女性、
発掘に関わる大学関係者と学生など、
通常はあまり接触をしない立場や年齢の人々が、
たまたま集まるような状況が生じるのです。

これと言った出来事が起こる訳ではないのですが、
年長の作業主任が自分の娘の結婚に複雑な思いを抱いたり、
大学生同士の三角関係めいた恋愛模様があったりして、
世代やインテリジェンスの格差を、
年長者が嘆いたり、
饒舌で攻撃的な作業員が、
未来から現在を俯瞰して世界を憂えるという、
チェホフ劇のような台詞を披露したりもします。

平田さんの劇作では、
いつも舞台上ではなくその外の世界で起こっていることが、
作品中で大きな位置を占めているのですが、
この作品の場合には、
現場の責任者がその日は不在であったり、
登場人物の数人が「ミイラ男」を目撃したり、
詰め所の床に走る亀裂が、
放置されて外へとつながっていたりという、
何かの予感のようなものが明示はされないままに連鎖して、
ラストはある人物が異様な仮面を付けて現れ、
皆がミイラ男の再訪を、
期待と不安を織り交ぜて、
ゴドーのように待つところで終演となります。

演技も演出も練り上げられていて、
如何にも青年団らしい安定感があります。

劇作についても平田さんらしいテーマであり構成だと思うのですが、
矢張りかなり以前に書かれたということもあって、
作者が描こうとした、
舞台の外の世界の空気感のようなものが、
伝わりにくいというきらいはありました。

最後の宴会で皆が歌う、
「とび職暮らし」という歌をどのように聞けば良いのでしょうか?
この場面はある種のユートピアと考えて良いのですか?
世代を超えて皆がしがらみや立場を忘れてひと時飲み歌う、
という情景を、
「人間って悪くないな」というように、
微笑ましいものとして受け止めれば良いのですか?
それとも、薄っぺらな自意識過剰のオナニーのようなものと、
そう捉えるべきでしょうか?

外の世界で起こっているであろうことの深刻さを、
どの程度に受け止めて鑑賞するべきでしょうか?
それが「ミイラ男」と言われると、
とても戸惑う部分があります。

作品としては昨年の新作「日本サポートセンター」と、
同じような構図になっていて、
ラストが歌で締め括られるという辺りも同じです。
ただ、「日本サポートセンター」も最後の歌は蛇足の感じがして、
居心地の悪い気分にはなったのですが、
全体の中でそれほどの重要性を持っていなかったのに対して、
今回の歌はかなり大きな影響を、
作品全体に与えているという気がするので、
その意味合いに納得がいかないと、
どうも全体がモヤモヤとしてしまうのです。

それから、変な笑いというか、
ある程度意図的なものではあると思うのですが、
オヤジギャグ的なものであるとか、
しょうもない間合いで笑いを取るような場面が多くあって、
そこもどうもモヤモヤしてしまいました。

そんな訳で今回はどうも駄目だったのですが、
それは作品自体の問題ではなくて、
作品の空気感のようなものと、
僕の感覚があまり共鳴出来なかった、
というようなことなのではないかと思いました。

岩松了さんの劇作もそうですが、
こうした舞台上に表現されない部分にこそ意味がある、
というタイプの芝居については、
意外に同時代性が強く、
その時代に体験しないと、
ニュアンスが感じにくいという部分はあるように思いました。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

チェルフィッチュ「部屋に流れる時間の旅」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日3本目の記事も演劇の話題です。
それがこちら。
チェルフィッチュ.jpg
今年活動20周年、
現在の小演劇を代表する劇団に成長した、
チェルフィッチュの本公演を観て来ました。

僕は以前に、
変な動きをしながら、
小さな声で無駄話のような台詞を交わして、
特に劇的なことは何も起こらずお終い、
というような公演を1回見て、
どうもこりゃ駄目だ、
というように感じて、
その後はあまり足を運びませんでした。

ただ、これもあまり好きではなかった
「マームとジプシー」も、
最近何度か観ているうちに、
そう悪くはないな、と思えてきたので、
好き嫌いは良くないと思い今回は鑑賞して来たのです。

今回の新作は1時間15分ほどの3人芝居で、
主な舞台は震災から1年後の2012年に設定されています。

簡素な舞台には、
コラボしているアーティストによるオブジェが配置され、
3人の人間が舞台には上がっていても、
普通に会話を交わすという感じにはなりません。
殆ど反応のない相手に語り掛けることを続けたり、
観客に向かって俯瞰的に状況を説明し続けたりします。
以前のように大きく不自然な動きがある、
という感じではなくて、
台詞とは同期することなく、
特徴的な仕草が、
静かに繰り返されます。

以下ネタバレを含む感想です。

まず安藤真理さんが登場して、
マイクを使って客席に語り掛け、
「これから目を閉じて、目を開けてと言うまで、そのままにしていて下さい」
という意味のことを言います。
自分はある人に呼ばれて、
その部屋に行く途中で、
その人を徐々に好きになってゆくのだ、と状況を説明します。

観客が目を閉じるということは、
要するに暗転することと一緒ですが、
作り手の側が闇を作るのではなく、
観客自身に自発的に闇を作らせる、
という発想が非常に斬新で、
これにはちょっと驚きました。

これは、時間を2012年に移動させるための工夫なのですが、
たとえば寺山修司は、
昔完全暗転で同じことをしようとしたのですが、
手間暇を掛けずに、
魔法の一言だけで同じ効果を表現する、
というある意味究極の手抜きに感心しました。
これを勝手に「完全暗転」に対抗した、
「観客暗転」と命名しました。

ただ、目を開けると安藤さんが消えて、
中央の椅子に吉田庸さんが後ろ向きに腰を掛けている、
というだけの変化なので、
ちょっと脱力するような気分もありました。

その後でまた最初と同じ場所から、
安藤さんが舞台上に現れるというのが、
どうにも納得がいかなくて、
せっかく「観客暗転」で時空を超えたのであれば、
同じように安藤さんが現れることだけは、
するべきではないように感じました。

物語としては、
青柳いづみさん演じる主人公が、
震災の4日後に喘息発作で亡くなっていて、
しかし、亡くなる前の4日間、
これから世界は良くなるという確信と、
皆で世界を良くしていこうという高揚感に満たされた、
という体験を、
死んでいるという立場から、
椅子に座っている自分の夫の吉田さんに向かって、
淡々と語り掛けます。

その一方で、
部屋のセットの外側にいる安藤さんは、
客席に呼び掛ける芝居で、
もう青柳さんが亡くなって時間が経っている2012年に、
吉田さんに呼ばれてその部屋に向かいながら、
事故による交通渋滞などもあって、
なかなか時間通りに到達出来ない、
というような話を、
これも淡々と続けます。

この2つの語りが並行して進みます。
つまり同じ男性に対して、
関係のある死者と生者の2人が、
同時に語り掛けるという構図です。

舞台上のオブジェは、
回転をしたり定期的に光ったりを繰り返して、
それが部屋を取り巻く時間や空間を示しているようにも思われ、
また原発事故やその後の電力の危機や自然エネルギーへの変化を、
間接的に示しているようにも思われます。

死者の青柳さんは何度も、
「ねえ、覚えてる?」と語り掛け、
それはチェホフの芝居の繰り返しの台詞のように、
何かの願望を形にしようとする試みのようにも思われます。

舞台上ではその後安藤さんと吉田さんが出会い、
生者2人の生活の中で、
死者の青柳さんが静かに忘れ去られるイメージで終わります。

死者の声を聴け、というメッセージと、
最悪の事件が起こった後の、
奇妙な高揚感と将来への根拠のない希望のような感情が、
この作品の主要なテーマとなっています。

主張はシンプルで明確ですし、
発想も面白いと思います。

明らかに、元になっているのは能の様式で、
安藤さんがワキで、
青柳さんがシテということになり、
吉田さんのポジションは微妙ですが、
ワキツレということになるかと思います。
役者さんの小さな動作の反復と、
固定された姿勢も、
能の所作をなぞっています。

部分部分の完成度は高く、
現代能の1つの完成形かな、
というようにも思います。

ただ、こうしたものが好きかと言われると、
個人的にはあまり好きではなくて、
たとえば最初の「観客暗転」でも、
観客が目を閉じても周りが明るければ幻想は成立しないので、
同時に実際にも明かりは落とすべきだと思うのですが、
そうしたことはしていません。

舞台上のオブジェも如何にも芸術的でお洒落ではありますが、
象徴的な意味合いに留まっていて、
直接的に舞台上の出来事に関わったり、
舞台に何かの変化をもたらしたり、
といったことはないので、
それも物足りない感じが残るのです。

総じて、
これも1つの演劇である以上、
もっと生々しい感じや、
役者の肉体が舞台上で何か別のものに変容するような感じ、
舞台上の台詞や沈黙や動きなどをきっかけとして、
形にならない何かが立ち上がるような感じ、
端的に言えば僕の信じる演劇的な要素が、
この作品にはほぼ何もない、
と言う点が、
勿論意図的なものではあるのですが、
僕には納得のいかない点で、
芸術性の高い、
海外でも受けそうな作品ではあると思うのですが、
あまりまた観ようという気持ちはおきませんでした。

「マームとジプシー」は様式的には同じように見えて、
時間軸がバラバラに解体され、
同じ瞬間が執拗に繰り返される世界で、
同じ動作を役者さんが運命的に反復する中に、
その肉体から立ち上がる、
虚無的で切ない抒情のようなものがあるので、
その点には強く演劇を感じるのですが、
そうした肉感的な要素が、
チェルフィッチュの今回の舞台にはないように思うのです。

お好きな方には申し訳ありません。

色々な感想があるということで、
ご容赦頂ければ幸いです。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。

唐十郎「ビンローの封印」(唐組・第59回公演) [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日2本目の記事は演劇の話題です。

それがこちら。
ビンローの封印.jpg
唐組の第59回公演として、
1992年に初演された「ビンローの封印」が、
装いも新たに再演されました。
花園神社の公演にいつものように足を運びました。

この作品の初演は同じ花園神社で観ています。

唐組の初期を支えた、
長谷川公彦さんと藤原京さんが劇団を去り、
稲荷卓央さんが初めて新作でメインの役どころを演じた作品です。

その前年に若手公演として、
「ジョン・シルバー愛の乞食編」が上演されていて、
キャストも含めてそれがこの作品に繋がっていることが分かります。

つまりこの「ビンローの封印」は、
唐先生の初期作品を飾った、
「ジョン・シルバー」ものの続編的な性格を持っています。

肩に魚を乗せた製造は、
オームを肩に乗せたジョン・シルバーのバリエーションですし、
「ジョン・シルバー」シリーズを代表する場面である、
公衆トイレのドアを開けると、
青い大海原が広がっている、
という場面が同じように再現されているのです。

初演を観た時の感想は、
正直ガッカリしたことを覚えています。

客演は当時の転位21の看板役者であった、
木之内頼仁さんで、
演技の質が唐組の役者さんとは大きく違いますし、
どんな感じで絡むのだろうなあ、
と期待をしていると、
1幕では何と一言しか台詞を言わず、
2幕は後半にだけ登場して、
それほど活躍をせずに傍観者のようにして終わってしまいます。

この作品の初演では、
稲荷卓央さんや鳥山昌克さん、久保井研さんなど、
その後の唐組を支えるメンバーが本格的に登場し、
当時の若手メインの公演となっていました。

正直その演技はまだ粗削りで不満がありましたし、
ラストで海の書割を載せたリヤカーが、
稲荷さんを載せたまま遠ざかるのですが、
それまでの唐先生のテント芝居の中で、
一番地味なラストに見えて、
とても物足りなく感じてしまったのです。

ただ、今回改めて、
間違いなく初演より緻密な久保井さんの演出で、
練り直された作品を観直してみると、
偽の血としてビンローが使用される構造にしても、
緊迫した対立の構図が持続される点においても、
なかなか古典的な呼吸で物語は構築されていて、
その2年前の「透明人間」からこの作品、
そして同年秋の「虹屋敷」と、
かつての状況劇場時代の2幕劇のスタイルを、
意識的に再現したような作品群で、
とても面白く完成度は高いと感じました。

テーマとしても、
尖閣諸島近海での漁船と海賊との闘争ですから、
当時は分かりませんでしたが、
極めて時代を先取りした作品でもあったのです。

この古典再構築のような時期を経て、
「桃太郎の母」、「動物園が消えた日」以降の諸作において、
唐先生の劇作は状況劇場時代とは、
全く異なる方向性を持ったものに変貌してゆくことになるのです。

キャストも好演でしたし、
血沸き肉躍る時代の空気を引きずる唐芝居として、
鑑賞出来たことは幸せでした。

それでは今日はもう1本、
演劇の記事が続きます。

「俺節」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日3本目の記事も演劇の話題です。
それがこちら。
俺節.jpg
土田世紀さんの漫画を原作に、
福原充則さんが台本と演出に当たり、
関ジャニ∞の安田章大さんが主役の演歌歌手を目指す高校生を演じた、
企画公演を観て来ました。

これはどんなものかなと思って、
何となく乗り気でなく観に行ったのですが、
福原充則さんの趣味全開という感じの楽しい舞台で、
思わず引き込まれ、
最後まで結構楽しく観てしまいました。

今時時代遅れの泥臭い話なのですが、
つか芝居を思わせる大芝居を、
現在を代表するクセ者役者の皆さんが、
全力で演じている様がとても楽しく、
ワクワクする思いで舞台を見守りました。

主人公の安田章大さん自身が、
独特のねばりつくような泥臭い芝居で面白く、
それを囲む面々も強力な個性派ぞろいです。

演歌の大御所を演じた西岡徳馬さんは、
ちょっと台詞覚えを心配しましたが、
不安を払拭する堂々たる力押しで素晴らしく、
全盛期のつかの芝居から抜け出して来たような存在感ですし、
六角精児さん、中村まことさん、高田聖子さんの3人は、
それぞれ個性的な2役を演じ分け、
当代を代表する個性派舞台役者の全力の惚れ惚れするような、
圧倒的な技量を見せてくれました。
この3人の全力の芝居を、
見られるというだけでも、
充分元は取ったと言える作品だったと思います。

正直ラストの趣向などは、
かなりあざとく厭らしい感じもするのですが、
トータルにはつか芝居を巧みにリニューアルした娯楽作品で、
多くの魅力的な演技に満ちた、
楽しい作品であったと思います。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

劇団道学先生「梶山太郎氏の憂鬱と微笑」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日2本目の記事は演劇の話題です。

それがこちら。
道学先生.jpg
大学の先輩の青山さんが主宰の、
劇団道学先生の20周年記念公演に行って来ました。

道学先生は旗揚げから、
数本見なかった作品があるのですが、
ほぼ9割くらいの公演は観ています。

今回は座付き作家の中島淳彦さんの作・演出で、
実際に夫婦の青山さんとかんのひとみさんが、
劇中でも結婚20年の夫婦を演じるという、
見方によってはあざとい感じもする作品です。

ただ、今回は中島さんの台本が快調で、
創作に行き詰まりモチベーションを失った小説家や、
それを取り巻く人々が軽妙に生き生きと描かれていて、
得意の歌ネタも楽しく出来ていますし、
ラストまでそれほど緩むことなく物語は展開されています。

道学先生の芝居としては、
「ザブザブ波止場」や「兄妹どんぶり」辺りと並んで、
一番優れた台本ではないかと思います。

主人公が変わり者の小説家ということでは、
過去に「無頼の女房」という作品があって、
姉妹編的な感じもあるのですが、
今回の舞台の方がより深い物語になっていたと思います。

そして、主人公の小説家を演じた青山さんも、
僕がこれまで観た中では、
最も説得力のある芝居をしていました。
いつも正体不明のおじさんという感じが強かったのですが、
今回はとっつきにくい外見の裏に、
感情の流れが見えていましたし、
タイミングの良いやりとりでは客席の笑いを誘っていました。

これからも新作を楽しみに待ちたいと思います。

頑張って下さい。

それでは次の記事に続きます。

シベリア少女鉄道「たとえば君がそれを愛と呼べば、僕はまたひとつ罪を犯す」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。

今日はこちら。
シベリア少女鉄道.jpg
天井桟敷亡き後、
忽然と現れた最後の演劇実験室、
「シベリア少女鉄道」の新作に足を運びました。

ネタが勝負で役者さんは時に記号のように扱われる、
という特異な舞台なので、
感想はいつも公演終了後に書くようにしています。

上演中のネタバレは、
これはもう犯罪の域だからです。

今回の作品は現時点でのオールスターキャストで、
篠崎茜さんの王道ヒロイン復活に、
相手役をおとぼけ王子(おじさん)の加藤雅人さんが勤め、
昔のシベ少を体現する、
状況劇場なら大久保鷹さんに相当する吉田友則さんが、
いつもの医者役で我が道を行き、
浅見絋至さんと川田智美さんの強力コンビが、
冷徹な鬼畜芝居を演じます。
最近やや影の薄い小関えりかさんも踏ん張りを見せ、
ゲストアイドル枠の葉月さんも、
しなやかに脇を固めます。
ほぼ鉄壁の布陣です。

ただ、今回はキャストを立てて、
自由度を広く取ったのでしょうか?

話自体はいつものお芝居の約束事の1つを、
過剰に反復するという、
正直工夫のあまりないもので、
ラストには、
「1つの指輪を男が女に渡す」というだけの行為を、
世界を構成する歯車の全てが軌道して、
運命機械として成立させる、
という力業があって、
少し盛り上がりますが、
これも以前にもっと大掛かりな構想のものが、
沢山あったので、
何を今更、という感じは矢張り抜けませんでした。

土屋亮一さんも多分以前より役者さんに優しくなったのか、
非人間的にキャストを扱う部分が少なくて、
それだけ普通のお芝居に近くなってしまったような感じがありました。

お話はいつもの通りで、
前半は普通に進行しているお芝居を、
後半は徹底的に崩してゆくのですが、
今回は「きっかけがあると同じ段取りを続けてしまう」
というだけのことなので、
もうひとひねりは欲しいところですし、
舞台自体の仕掛けも欲しいところです。

ただ、以前の芝居では、
後半崩れてくると、
もう主筋を追うことが出来なくなってしまったのですが、
今回は崩しながらも主筋は分かる形で継続し、
ラストまでキチンと理解可能になっている点は、
技術的には以前よりレベルが向上していると感じました。

また以前のシベ少の舞台はほぼ全てソフト化不可能でしたが、
今回の作品などは別にDVDにしても問題はなさそうで、
今後はそうした方向も視野に入れているのかしら、
というように思わなくもありません。

エビ中やテレビなどのお仕事も見ると、
色々な意味で普通のお芝居にシフトしつつあるのかな、
というようにも感じます。
ただ、矢張りシベ少の本公演に関しては、
演劇実験室たる孤高を歩んで頂きたいと思いますし、
これはこれで良いとして、
また新たなる地平を目指した前衛的な芝居を、
是非お願いしたいと思います。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

吉田大八「クヒオ大佐の妻」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。
午後から新国立劇場のワーグナーを聴きに行く予定です。
ワーグナーは大好きなのですが、
5時間40分は長いですね。
「指輪」は以前は「ワルキューレ」が一番と思っていましたが、
聴く回数が増えると「ジークフリード」の後半が、
「トリスタンとイゾルデ」のダイジェストのようで、
最近は一番気に入っています。
これはハッピーエンドで終わる、というところがいいのです。
それも男女の愛のハッピーエンド。
勿論連作の1つだからですが、
他のワーグナーはほぼ全てアンハッピーエンドで、
「ニュールンベルグのマイスタージンガー」は、
今ではハッピーエンドとして聴くのは、
つらい演目になってしまったからです。

休みの日は趣味の話題です。

今日はこちら。
クヒオ大佐の妻.jpg
映画監督の吉田大八さんが自ら脚本を書き演出した舞台が、
今池袋のシアターウェストで上演されています。

クヒオ大佐というのは実在の日本人の結婚詐欺師で、
自分はアメリカ空軍のパイロットで、
ハワイ人とイギリスのハーフを名乗っていました。
この男は多くの日本人の女性を、
荒唐無稽な話で騙し逮捕もされましたが、
今でも何処かで平然と詐欺を続けている、
という都市伝説のような話もあります。

この奇々怪々で胸騒ぎのするような実話を、
吉田大八監督は以前映画化しています。

今回の舞台はそのクヒオ大佐の妻を、
宮沢りえさんに演じさせた4人芝居で、
あまり出来が良いとは言えませんが、
今時珍しい脳裏にこびりつくような奇怪なアングラ芝居で、
凝りに凝った美術と演出には見応えがありました。

以下ネタバレを含む感想です。

舞台にはいびつに歪んだ古いアパートの2階が緻密に再現され、
クヒオ大佐の妻を名乗る女性が、
そこで1人洋裁のミシンをガタガタと踏んでいます。

そこに岩井秀人さん演じる得体の知れない宅配便業者が訪れ、
荷物を口実にして、
クヒオ大佐の妻に尋問めいた質問を、
執拗に繰り返してゆきます。

そこにクヒオ大佐を慕う少年や、
クヒオ大佐に騙された若い女性が絡み、
クヒオ大佐自身は舞台には登場しないのに、
彼が象徴する「米軍に支配された世界」が、
屈折したたぎるような熱情として、
舞台を覆ってゆくのです。

ミシンを叩く音が銃声に聞こえてくるようになると、
もう現実の世界は遠のいて、
軍服という存在を仮衣として、
宅配業者はミシンという戦車に跨った軍人に変貌し、
アパートの外では空襲警報が鳴り響きます。
時はアメリカによるイラクの空爆で、
クヒオ大佐というただの詐欺師の幻影が、
戦時の記憶を呼び込んだようにも思われます。

そして、詮索好きな宅配業者が消えうせた後には、
またミシンの音がガタガタと鳴り響く、
「平和な」日常が訪れるのです。

この作品は構造的には唐先生の芝居に似ています。

軍服をまとった瞬間に時間は遡り変身するのは、
「透明人間」などでもお馴染みの設定ですし、
けたたましいミシンの音が過去の闇を引きずり出すというのは、
かつての名作「ベンガルの虎」を思わせます。
古びたアパートの2階に謎の女がいて、
押入れの中にも異界がある、
という辺りは「秘密の花園」を思わせます。

作品構造自体も、
リアリズムで作られたアパートのセットが異界に変貌する、
という基本プロットであるとか、
主人公が不在のままに物語が進み、
実は繋がりのある謎の闖入者が、
ねちっこく長い掛け合いの果てに、
その正体を現わすという趣向にしても、
唐先生の芝居そのままです。

ただ、台詞が舞台劇のものとしては、
あまりこなれていないのと、
台詞を梃子のようにして物語が高揚するという感じがない点、
クライマックスには結構大仕掛けが用意されているのですが、
その段取りが舞台の緊迫とあまり連動していないので、
せっかくの仕掛けが充分な効果を生んでいない、
という点など、
不満は残りますし、
結局作品の本質的な意図は何処にあったのか、
モヤモヤとして分かりにくい感じはありました。
この辺りのモヤモヤ感は、
タニノクロウさんの作品に近いような印象もありました。

いずれにしても面白いとは言えないですし、
何度も睡魔には襲われたのですが、
今後も目を離せない作家であり演出家であることは確かで、
映画と共に今後の舞台も期待をしたいと思います。
超弩級の傑作が、
今後生まれる可能性は孕んでいると思うからです。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

劇団チョコレートケーキ「60’s エレジー」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。

今日は何本かの記事をアップする予定です。

まずはこちら。
60年代エレジー.jpg
新宿のサンモールスタジオで、
5月21日まで劇団チョコレートケーキの新作公演が行われました。

これは日本の1960年代の、
学生運動や東京オリンピック、
高度成長の歴史と、
その年代を希望に燃えた若者として過ごした、
1人の青年の末路を描くことで、
より下の世代が60年代の日本の総括に挑んでいます。

作品は現在の東京で孤独死を遂げた老人が、
残した手記を読み解くという経過で行われます。
そこで描かれるのは、
端的に言えば高度成長の全否定の物語です。

舞台は蚊帳の工場で、
地方から就職のために上京した少年は、
工場の2代目社長の好意で、
住み込みで働くと共に夜間の大学にも通えるように、
学費の援助も受けています。

しかし、高度成長と共に日本人の生活は大きく変わり、
蚊帳の需要は急激に減少してゆきます。
社長は時代に変化に合わせて仕事を変えることは出来ず、
まず社長の実の弟の首を切り、
次にはベテランの職人の首を切って、
工場と少年だけは守ろうとします。

しかし、少年は大学で学生運動にのめり込み、
親代わりの社長夫婦の心を思いやろうとはしません。
工場は閉鎖され、その後にアパートが建つと、
退職して天涯孤独の老人となったかつての少年は、
そこが取り壊される直前に自ら命を絶つのです。

劇団チョコレートケーキ面目躍如の感のある力作で、
個人的には新作としては2014年の「サラエヴォの黒い手」以来で、
最も気に入りました。

話はやや単純化され過ぎていて、
経営に苦しくなってリストラをするという段取りが、
何度も繰り返されるのがやや単調に感じますが、
団塊の世代へのエレジー(挽歌)として、
その筆法は力強く、
高度成長それ自体を切って捨てるような過激さは、
ちょっとより上の世代には不可能な作劇だと感じました。

役者は劇団員の3人がそれぞれの芝居を、
熟成感を持って演じていて味わいがありました。
ただ、3人とも役作りは素晴らしいのですが、
長い年月のドラマとしては、
演技の振り幅がやや小さく、
観続けていると単調に感じるきらいはありました。
ただ、これは劇の構造自体にも通じる問題であったように思います。

舞台装置も小空間に緻密に作り込まれていて見応えがありました。
ただ、これも小物を含めて、
数年が経っても何1つ変化がないので、
その点はやや不満に感じました。

総じて、一種の年代記として観るには、
その変化が見えにくく、
繰り返しが多い、という欠点はあったように思います。

今回の成功は矢張り会場が小さかったことで、
劇団チョコレートケーキは、
シアター・イースト(ウェスト?)やシアタートラムなど、
もう少し大きな空間での公演もありましたが、
密度の点で矢張り少し問題があったように感じました。
駅前劇場やサンモールスタジオくらいのキャパになると、
その凝集度が高まって、
凄みのあるような迫力を生むのです。
ただ、今後この集団がより大きくなるには、
もう少し大きな劇場での舞台を、
どのように高密度に保つかが、
大きな課題ではないかと感じました。

頑張って下さい。

それでは映画の話題に続きます。

岩松了「少女ミウ」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は土曜日で、
午前午後とも石原が外来を担当する予定です。

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
少女ミウ.jpg
現代を代表する劇作家と言っても良い、
岩松了さんの新作が、
若手中心のキャストで、
下北沢のザ・スズナリという小空間で上演されています。

若手中心とは言っても、
メインは黒島結菜さんと堀井新太さんという、
人気のある2人で、
岩松さんならではの、
とても贅沢な布陣になっています。

岩松了さんは、
別役実とチェーホフをお手本に、
見かけ上さりげない日常会話の積み重ねの中に、
隠されたドラマが進行するという、
独特のスタイルを確立し、
精力的な演劇活動を行っています。

岩松さんはその上かなり意地悪な人で、
いつも観客の心理を翻弄するような仕掛けをしていて、
ラストでは観客の予測を裏切り煙に巻くのです。

以前は娯楽性を否定するようなところがあり、
徹底してドラマチックな要素も排除していたのですが、
最近の作品はかなり通常のお芝居に近いようなものもあり、
1つの形式にこだわらない、
多様性のある作品が生まれています。

今回の新作は、
かなり凝りに凝った設定で、
福島の原発事故(劇中では具体的な名称は出ない)
に翻弄された家族の物語を下敷きに、
事故の6年後の現在に、
それをドキュメンタリーとして取り上げようとするテレビ局と、
震災で翻弄された2人の少女との葛藤の中から、
抑圧されていた過去の物語と、
事実が報道により変容してゆく様を描いたものです。

以前の岩松さんの作劇であれば、
6年前の出来事は全く舞台には登場しなかったと思うのですが、
今回の芝居では、
一段上がった奥にテレビのモニターの枠にも見える舞台を配置して、
そこで過去の出来事が再現されるという仕掛けを作り、
以前より分かりやすく戯曲の構造を提示しています。
ただ、そうは言っても意地悪な岩松さんは、
過去の家族のドラマが、
単純に理解出来るような作劇にはしていません。

過去は常に意図的に作り変えられ、
ある人物の体験が別の人物の体験として再生されたりもするので、
結局はラストには観客は幻惑され翻弄されて終わることになるのです。

岩松マジックは健在だと感じました。

以下ネタバレを含む感想です。

通常は観劇後に読んで頂きたいのですが、
岩松了さんの作品については、
ある程度の予備知識があった方が良いように思います。
予備知識があっても、
結局はよく分からなくなってしまうからです。

主人公の黒島さん演じる少女ミウの父親は、
東京電力(劇中では名称はぼかされています)
の原発事故の賠償の担当責任者になっていて、
その罰であるかのように、
ミウの両親と姉夫婦の5人は、
本来は住んではいけない筈の避難区域に住んでいます。
そこに住むに至った経緯はしかし、
母親が自分が暮らしたいから、と言ったようでもあり、
父親がそれを望んだようでもあります。
ある日父親は忽然と失踪をしてしまい、
それから数か月してミウと同い年の、
アオキユウコという少女が、
父親の隠し子として登場します。
そして、アオキユウコと食事をした直後、
ミウの母親と姉夫婦は姉のお腹にいる8か月の胎児もろとも、
拳銃で自死してしまいます。

作品はまず奥の舞台を使って、
一家心中同日の、
食後の時刻から始まり、
一家の殺し合いをそのまま上演すると、
そこで銀色の幕が瞳孔のように奥の舞台を塞ぎ、
前の舞台で6年後のテレビ局の控室に場面が移ります。

そこでは力強く復興に進む被災地の特集が、
数か月の報道生番組として収録されていて、
そこにミウと異母妹のアオキユウコがゲストとして招かれています。

番組のアンカーマンである堀井新太演じる広沢は、
どうやら過去にミウやアオキユウコのことを知っているようです。
プロデューサーのたとえ嘘が混じっても良いので復興を演出したい、
という考えに反発し、
アンカーマンを降りてしまうのですが、
そこには何か裏もありそうです。

アオキユウコはミウと父親との思い出を、
自分のことのように語り、
自分も避難区域で暮らしていたような嘘を、
平然とテレビで話します。
一方でミウは茶化すような発言を繰り返して、
自分の言葉で過去を語ろうとはしません。

そのうちに、
広沢とミウとアオキユウコは、
三角関係であるように喧伝されます。
広沢は避難区域のミウの一家を、
隣で監視していたようなのですが、
それがなぜであるのかは良く分かりません。

そして、現実であるのか別個の情景であるのかフィクションであるのか、
判然としないような状況で、
広沢の子供を姉と同じように孕んだミウが、
広沢を毒殺する情景が描かれます。
それは、ミウの父親がひそかに殺されたことを、
暗示しているようにも思われます。

つまり、過去に家族の悲劇があって、
それが謎の一家心中に繋がっているのですが、
家族が死んだ本当の理由は、
実際には明らかになることがありません。
不幸の根にある震災の記憶自体が、
意図優先の報道によって歪められ変容してゆくのですから、
その奥にある家族の悲劇などは、
分からなくて当然なのかも知れません。

過去の岩松作品の傾向から考えれば、
ミウの父親は殺されていて、
それを知っていた広沢は、
ミウの家の前に石を置いていたようにも思われます。
生まれない子供も1つのキーワードになっていて、
そこには震災が大きな影を落としています。

登場人物の1人が町田康の「告白」の分厚い文庫本を、
意味ありげに手にもっていたり、
奇形の昆虫が瓶に入れられる様子が反復されたり、
テレビ局のスタッフに相似の女性との三角関係が匂わされるのも、
隠されたものを重層的にほのめかしているように思います。
「告白」は人間が人間を殺す心理を、
テーマにした傑作であるからです。

台詞は岩松作品の中でも非常に詩的で、
「全てはドラマになる。見えないからこそ全てがある」
という発言には、
岩松さんの演劇論が見え隠れしています。
「見える世界と見えない世界が半分ずつあって、少しずつ見えない世界が多くなる」
というのも不気味で素敵ですし、
人間と生まれた以上家族であることだけは捨てられない、
という指摘も残酷です。

作品構造はかなり様式的で、
一家心中の場面などは別役そっくりの台詞もあります。
舞台の使い方はちょっと窮屈にも感じます。

ただ、何処を切っても岩松了という感じの力作で、
この幻惑される感じが、
最近はとても心地良く思えるのです。
主役2人もとてもとても魅力的で、
小空間での観劇はとても贅沢に感じました。

ご興味のある方は是非。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

北村想「黒塚家の娘」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。
三浦半島の132年に一度の大開帳というものがありまして、
朝から10か所ほどのお寺を廻って、
道が混まないうちに帰って来たところです。

休みの日は趣味の話題です。

今日はこちら。
黒塚家の娘.jpg
北村想さんが台本を書き、
寺十吾さんが演出をする、
シス・カンパニーの日本文学シアターのシリーズの、
第4弾が今4人芝居として上演されています。

このシリーズは、
「グッドバイ」「草枕」「遊侠沓掛時次郎」と続き、
どれもとても楽しく観劇しました。
どれも1時間半を切るくらいの短い芝居で、
遊びに満ちた自由闊達な物語、
面白さと退屈さのスレスレを狙ったような感じが心地良く、
北村さんの新境地を見るような思いがしました。
これまでの3作の主役は段田安則さんで、
脇にも浅野和之さんのような手練れが揃っていました。

今回は内容を一新した感じで、
キャストも風間俊介、趣里、高橋克実、渡辺えりの4人、
内容も能の「黒塚」を現代風にアレンジして、
一種の宗教劇にしたもので、
これまでとは大分傾向が違っています。

内容はほぼ能の「黒塚」のアウトラインは守っていて、
それを現代(?)に置き換え、
西洋の青髭ものなどのエッセンスをまぶしてあります。
とぼけたユーモラスな台詞もあるのですが、
トータルにはこれまでのシリーズより重く暗い雰囲気となっています。

主人公は僧ではなく、
プロテスタントの若い牧師という設定になっています。

上演時間は1時間半弱の短さであるのは同じですが、
何処までが真面目なのか判然としないものの、
キリスト教の神学論やスピノザについての議論が、
結構内容の中で大きな比重を占めていて、
意外に真面目に宗教論の芝居を、
したかったようにも思えます。

ただ、ラストは結局は原作と同じで、
鬼が調伏されるということになるので、
その辺りの段取りの平凡さが、
何となく見ていてモヤモヤする感じは残ります。

演出は今回は寺山修司をかなり意識したアングラチックなもので、
開幕前の音効もそんな感じですし、
屋敷で食事を摂る場面などは、
初演版の「奴婢訓」そのものという感じでした。
キリスト教の教義や哲学談義の場面では、
映像を巧みに使用して、
分かりやすく面白く解説をするところなどは、
寺十さんの面目躍如という感じなのですが、
いかんせん話が地味で、
ラストは歌舞伎でも能でもなく、
ただ恐い顔をした女性と言葉で対決するという、
間抜けにしかなりようのない場面なので、
キャストや演出がちょっと気の毒に感じました。

こうした得体の知れなさが、
北村さんの戯曲の魅力でもあるのですが、
今回はどうも失敗に終わってしまったように思います。

残念ですがまた次回に期待したいと思います。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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