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島倉千代子さんと守秘義務の話 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日で診療所は休診です。

ちょっと福井の方まで行って、
一泊して帰る予定です。

雪が心配です…

今日は雑談です。

12月20日のフジテレビで、
先日亡くなった島倉千代子さんのドキュメントがあって、
妻が見たいと言うので一緒に見たのですが、
色々な意味でちょっと驚きました。

まず、医学用語のテロップに間違いが多いのにビックリしました。

一番凄かったのは、
肝臓癌の治療に手術を勧められた島倉さんが、
手術は舞台に立てなくなる可能性があるので困ると、
別の治療を行なったというくだりで、
その治療の名称が、
「冠動脈塞栓術」とはっきりテロップで出ていました。

勿論冠動脈と言うのは、
心臓を栄養している血管ですから、
肝臓癌とは何の関係もなく、
冠動脈が詰まるのは心筋梗塞ですから、
心筋梗塞を起こすような治療がある訳はなく、
「肝動脈塞栓術」の間違いです。

これは確かスポーツ新聞か何かの記事で、
既に同じ誤りがあって指摘されていたと思うのですが、
それでも堂々と誤りを繰り返していたので、
驚きました。

それから、1993年に乳癌の温存手術を受けた時の、
当時のテレビのドキュメントが流れたのですが、
そこでの字幕では、
リンパ腺が「リンパ線」と記載され、
放射線科が「放線科」と記載されていました。
登場した主治医の先生は、
「放射線科」と言っているのですが、
何となく聞いた印象としては、
「放線科」と聞こえるので、
そのまま文字起こしをしてしまったようです。

最近のこうした医療用語は、
ほぼ正確なことが多いので、
ゴールデンタイムの番組で堂々とこうしたミスが流れるのは、
かなり珍しいことだと思いました。

もう1つ引っ掛かったのは、
主治医とされる先生が実名で登場して、
島倉さんがその先生宛てに送った病状についてのファックスが、
病院に送られた着信側のものを、
そのまま公開されていたことです。

ファックスの内容は、
今日は具合が悪いので、
9時までには病院に行かせて下さい、
のようなもので、
それから病状への不安や、
将来への不安が綴られています。
紅白の出場が決まった際に、
その先生に宛てた私信の内容も公開されていて、
自分の余命はこれこれなので、
といったような話も書かれています。

亡くなったばかりの患者さんからの、
このような診療についての私的なやり取りを、
主治医の判断で公開しても良いものでしょうか?

僕にはどうも疑問に思えてなりません。

こうした私信が公開されても良いのは、
敢くまでご本人がそれを、
生前に希望していた場合に限ると思います。

しかし、番組の流れを見る限り、
そうしたことは考え難く、
そもそもファックスは送り手の原文がある筈で、
島倉さん自身がそれを公開する意向であれば、
原文の方を紹介すれば良いのですから、
主治医が自分の判断で公開したのにほぼ間違いはなく、
臨床医の基本的な態度として、
問題が大きいように僕には思えました。

僕のブログなどでの診療の守秘義務についてのスタンスは、
患者さんの特定に繋がる情報、
実名などは勿論ですが、
特に時系列でいつこういうことがあった、
というような点に関しては、
原則として記載はしない、というものです。

要するに、今日の外来でこんなことがあった、
というような記載は原則としてしない、ということです。

僕も以前はかなり際どい記載があったのですが、
最近は間違いなく、
このルールは守っているつもりです。

ただ、ツィッターをされているような先生は、
匿名の方は勿論、
実名の方やほぼ実名と同様(医療機関がリンクされている等)の方を含めて、
多くの方が、
「今日こうした患者さんが来てこれこれの目に遭った」
と言うような話を時系列でつぶやかれています。

匿名の記載であっても、
患者さんご本人がお読みになれば、
間違いなく自分のことだと分かる訳ですから、
ご本人の承諾なくこうした記載をするのは、
矢張り大きな問題があるように僕には思えます。

しかし、どうしても時系列のこうした発信媒体では、
そうした誘惑に抗い難いことは確かで、
安易にそうした誘惑に流されないように、
自分の中のルールを常に確認しながら、
拙い発信を続けたいとは思っています。

それではそろそろ出掛けます。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

薬剤師さん、ごめんなさい [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は水曜日なので、
診療は午前中で終わり、
午後は産業医の面談に廻る予定です。

それでは今日の話題です。

今日は雑談です。

診療所は院外処方なので、
診察の後で処方箋を発行し、
それを調剤薬局でお薬に変えてもらうことになります。

その処方箋に不備があったり、
薬の組み合わせや量などについて、
薬剤師さんの目から見て疑問の点があると、
診療所に問い合わせの電話が入ることになります。

処方医の立場としては、
完璧な処方でなければなりませんし、
そう心掛けてはいるのですが、
実際には頻繁に電話が掛かって来ます。

その多くは、申し訳ありません、凡ミスやうっかりミスです。

この点で僕のような底辺の医者は、
薬のプロである薬剤師の皆さんには頭が上がりません。

ミスにも色々なものがあり、
ちょっと気を付ければ防げるものもあれば、
防ぐことが難しいものも中にはあります。

先日こんなことがありました。

30代の女性の方が初診で診療所を受診され、
1年前の受診歴は残っていたのですが、
そこでは特にご病気はありませんでした。

風邪症状の後で咳が止まり難いという訴えで、
これは今しばしば見られるものです。
熱はなく全身状態は特に問題はありません。
咳は咽喉がむず痒い感じで始まり、
一旦出てしまうとなかなか止まりません。
咽喉を見ても腫れはなく、
聴診器で呼吸音を聞いても特に異常はありません。

数日前に他の医療機関を受診して、
その時の処方はニューキノロン系の抗生物質であるクラビットと、
痰切れの薬であるムコダインの2種類でした。

咳の風邪に検査をしないですぐクラビットというのは、
比較的よく出される処方ですが、
ネットなどで著明な某先生などからは、
目を吊り上げて、バカ医者と、
吊るし上げに遭うこと必至の処方です。

処方した理屈は、
咳風邪にはマイコプラズマやクラミジアの感染の事例があり、
その場合第一選択のマクロライド系の抗生物質には、
現在は耐性菌が多いので、
耐性菌の少ないニューキノロンを使用しよう、
という考え方です。

ただ、
マイコプラズマの肺炎では、
病初期から発熱は必発で、
本来は肺炎の有無をレントゲンなどで確認するべきですし、
軽症の事例で本当に抗生物質の使用が、
予後の改善に結び付くという根拠はありません。
また、特に結核の流行地域においては、
ニューキノロンの使用により、
結核が見落とされたり、
その予後が悪化する、という、
海外の報告もあります。

従って、咳の風邪と思われる患者さんに対してのニューキノロンの使用は、
あくまで慎重でないといけないのです。

余談でした。
話を元に戻します。

クラビットの処方は4日間だったので、
僕はその使用はそのまま続けてもらい、
それに加えて喘息にも使用する抗アレルギー剤と、
シロップの咳止めを処方しました。

患者さんが診療所を出てしばらくしてから、
調剤薬局から電話が入りました。

その患者さんは緑内障で点眼薬の処方を受けているので、
シロップの咳止めは禁忌で使えない、
と言うのです。

こうしたことは結構あります。

風邪薬や咳止めなどに含まれている、
抗ヒスタミン剤は、
抗コリン作用を持っているので、
緑内障には禁忌です。

精神科や心療内科で使用される薬剤の大多数には、
矢張り抗コリン作用があるので緑内障には禁忌です。

腹痛や結石の痛みに使用されるブスコパンも、
抗コリン剤なので緑内障には禁忌です。

ただ、実際には一口に緑内障と言っても、
その程度は様々で、
その病態も異なりますから、
その全てにおいて、
同じように悪化のリスクがあるとは言い切れません。

実際に心療内科の患者さんのケースなどでは、
緑内障の点眼をしているからと言って、
処方を中止するのは現実的ではないので、
眼科の先生に問い合わせをすると、
問題ないので使って下さい、と言われることが殆どです。

抗ヒスタミン剤やそれを含む処方を出す時には、
従って緑内障と男性では前立腺肥大の有無の問診が、
必須なのですが、
せわしないとうっかりすることがあります。

今回は以前の初診時に既往症なしであったことと、
30代の女性であったことから、
あまりその可能性を考えずに、
特に聞くことなくそのまま処方してしまいました。

僕のミスです。

ただ、多くの緑内障の点眼の処方は、
問題のないケースが臨床上は多いので、
僕は薬剤師さんからお電話で指摘を受けた時に、
そんなことをちょっと言い訳めいた感じで話しました。

すると、ちょっと木で鼻を括ったような感じで、
「でも、全ての緑内障は禁忌になっていますから」
と言われたので、
いけないことなのですが、
ちょっとカチンときてしまい、
やや攻撃的な感じの受け答えになってしまいました。

電話を切ってすぐ反省しましたが、
こういうのは後の祭りです。

患者さんには申し訳なかったのですが、
もう一度診療所まで戻って来て頂き、
お詫びをして悩んだ末に麦門冬湯を出しました。
これも馬鹿の何とか…みたいな漢方の使い方で、
本当はしたくなかったのですが、
考える時間もなく、
何となくお茶を濁す感じになりました。

こういうことが一度あると、
もう絶対にないようにしよう、
と心に誓うのですが、
それでも忙しさに紛れて、
つい凡ミスをしてしまうことがあり、
それを指摘されると、
つい大人げない態度を取り、
大人げない言葉を発してしまうことがあります。

僕は性質として、
そうしたことが1つあると、
2日くらいはウジウジと悩んでしまうので、
そんなダメージを食らうくらいなら、
気を付ければ良いのに、と思うのですが、
なかなか難しいところです。

今日の話は端的に言えば、
「薬剤師さん、ごめんなさい」
ということです。

いつも教えて頂いてばかりなのに、
つい卑小などうでもよいプライドもどきが頭を出して、
腹を立ててしまう心の貧しさをお許し下さい。

今日もよろしくお願いします。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

「老婆心ながら…」その他 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は胃カメラの日なので、
カルテの整理をして、
それから今PCに向かっています。

それでは今日の話題です。

今日は言葉にまつわる雑談です。

「老婆心ながら…」という言い方があります。

辞書を引くと、
世話焼きの老婆のように、
しなくても良いおせっかいを焼くこと、
のような説明になっています。
転じて概ねこの言葉を使う人は、
相手のことをお馬鹿さんだと思ったり、
相手の言っていることが、
誤りや誤解であると思ったりした時に、
ちょっとした謙遜の意味合いを含めて、
「老婆心ながら、
こうした発言をされる際には、
せめて専門書の1冊くらいは読破してから、
されることをお勧めします」
のように、使われていることが多いように思います。

こうした使い方をする人は、
相手がどういう立場の人であっても、
同じ表現を使っています。
相手が年長者であれ、年下であれ、区別はありません。
一方で、この言い方は、
あくまで明らかな年長者や上の立場の人が、
年下や目下の人に向かって使用する時のみ、
使うべきだ、という見解があります。
その通りだ、という意見がある反面、
そうした人間関係には関わりはない、
という意見もあります。

皆さんはどうお考えになりますか?

これはあくまで僕の私見ですが、
「老婆心ながら」という特殊な言葉は、
明らかな年長者が、遥かに年下の相手に対する時のみ、
使用が可能な言葉だと思います。
辞書にはそうした記載はありませんが、
老婆のように、という表現自体が、
既にそうした意味合いなのです。

この言葉は20~30年前くらいに、
文筆業の特に若手の方が、
相手を批判したりする時に、
おそらくはあえて厭味の意味を含めて使用したので、
それがその後の世代に伝わって、
相手をへこませる議論の際の1つのレトリックとなり、
そうした方を中心に普及したものだと思います。

通常の会話などに使うのは不適切で、
語感も悪く、僕は大嫌いです。
こうした言葉を濫用する方は、
そうした品性をお持ちの方であることが多いので、
僕は絶対に近付かないようにしています。

これは僕の尊敬する年長者から、
「老婆心ながら…」と教わりました。

それから…

「檄(げき)を飛ばす」という言い方があります。
これは辞書を引くと、
自分の考えをひろく世間に伝えること、
のように、書かれていて、
「後援会の席上、後援会長は絶対勝利を勝ち取ると、檄を飛ばした」
のように、使われることがよくあります。
作家の有川浩さんは、
自衛隊ものの作品などで、
この表現を盛んに用いています。
訓練の際に、「上官が檄を飛ばした」のような使い方です。

しかし、檄というのは、
元々は言葉を書いた木札のようなもののことで、
それを遠くにいる自分の味方に、
自分に呼応して戦うように促す中国の故事です。
転じて自分の考えを知らしめるために、
多くの人に文書を送り付けたりすることを意味しています。
 
つまり、その場にいない人に伝える意味なので、
会議や講演会などで、
その場にいる人に伝える時には、
使わない言葉なのです。
有川さんの使い方は、その意味では明確に誤用です。

これはどうもスポーツ新聞などで、
野球部の監督が選手を前にして発破を掛けるために、
「今日は死ぬ気でやれ!」
などと怒鳴ることを、
「監督は檄を飛ばした」
のように、誤用したことが始まりと考えられています。

「檄」という言葉が、
「激」に似ているので、
何となく複数の相手に向けて怒鳴ることを、
「檄を飛ばす」と錯覚したのです。

現在ではたとえばツィッターで拡散を呼び掛けたり、
メールを不特定多数に送りつけたりする行為は、
「檄を飛ばす」の正しい使用事例であるように思います。

これは高島俊男先生の、
「お言葉ですが…」の第3集に記載があります。

先日駒場アゴラ劇場で、
鈴木忠志さんの最近のエッセイ集を読みましたが、
矢張り「檄を飛ばす」を誤用していて、
「これこそ檄というべきものである」
というように、確か三島由紀夫をおちょくる文脈だったと思いますが、
死を覚悟したような文章のことを、
「檄」として理解しているようだったので、
非常に滑稽に感じました。
それも、物凄く偉そうに書いているので、
微苦笑を誘うのです。

それから…

「乖離」と言う言葉と、
「解離」という言葉があります。
いずれも読み方は「かいり」です。

これは両方とも「離れること」ですが、
乖離の方は「理想と現実の乖離」のように使い、
解離の方は「家族が解離する」のように使います。

何が違うのかと言うと、
解離というのはある1つのものが2つに割れることで、
乖離というのは元々別個のものに、
同一の関連性や同一の方向への傾向があり、
それが失われることを示しています。

1つであった家族が2つに割かれたり、
1つの人格が2つに分かれて多重人格になるのは、
従って解離ですが、
理想と現実というのは、
その物の持つ傾向のようなものが一致していて、
それがバラバラになるので、
乖離なのです。
乖離はまた「袂を分かつ」のような意味でも、
使用されることがあります。

宮部みゆきさんの「誰か」には、
家族の関係性がバラバラになることを、
乖離と表現していて、
さすがに現代口語文のお手本なので正確なのですが、
同じ作者ばかり出して失礼ですが、
有川浩さんの「県庁おもてなし課」では、
1つであった家族がバラバラになることを、
「乖離」と表現していて、
これは間違いなのです。

これも「乖離」という字が何となく格好良く見えるのと、
広辞苑などの説明が、
「そむきはなれること。はなればなれになること。」
と意味不明なので、
よく誤用されるようです。

これは大学の研究室時代の論文のタイトルに、
乖離という字を使って、
その時の指導医の先生から教わりました。

今日は言葉についてのあれこれでした。

それでは今日はこれくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

現代の「死の本」の謎を考える [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

明日から8月15日まで、
診療所は夏季の休診になります。
ご迷惑をお掛けしますがご了承下さい。

その間はメールのご返事も出来ませんので、
その点もご了承下さい。

今日は雑談です。

世の中には色々な人がいて、
色々な意見を発信したり、
作品にしたりしています。

そのこと自体は勿論、
何ら問題はないことだと思います。

ただ、
特に人間の生死に関わるような情報に関しては、
それを安易に多くの人の目に触れる場所に、
晒すようにして発信した場合、
そのことがそれを無防備に受け取る個人に、
どのような影響を与えるかという点についての、
想像力を持つことが、
発信者の義務である、
という言い方は出来るように思います。

勿論この点については、
僕自身も他人事ではありません。

1冊の本が、
それを読む人間に、
どのような影響を与えるでしょうか?

僕は読書は嫌いではありませんが、
本というもの、活字というものが、
勿論現在ですから電子メディアも含めてのことですが、
それを読む人間に与える影響については、
それほど大きなものであるとは、
考えてはいませんでした。

昔のミステリーに、
「死の本」というようなテーマがありました。

ある謎の本があり、
その本を読んだ人間には、
必ずほどなく死が訪れるのです。

一体その本には何が書かれていたのだろうか、
というような謎です。

本が人を殺す、
そんなことが本当にあるのでしょうか?

僕はこれまで、
そんなことはないと信じていました。

しかし、
そんな僕の信念を覆すような事実に遭遇したのです。

それが近藤誠医師(以下敬称略)によって書かれた、
「医者に殺されない47の心得」
という1冊の本です。

実際の事例をご紹介させて頂きます。

基本的に事実ですが、
その深刻さと守秘義務及び個人の特定を避ける観点から、
細部は敢えて変えて記載している部分のあることを、
予めお断りしておきます。

Aさんは60代の男性で、
肺癌が見付かり手術を受けました。
術後に内服の抗癌剤を使用しましたが、
生活が制限されるような副作用はなく、
その後4年間は趣味のスポーツも問題なく出来るまでに、
生活の質は改善していました。
ところが、4年目の定期検診で、
肺癌の再発が見付かりました。
慎重に検査を重ねたところ、
肝臓や脳にも転移が見付かり、
肺の転移巣を切除した後、
脳に放射線治療を行ない、
それから体力の回復を待って、
抗癌剤治療の方針となりました。

一旦退院して自宅に戻り、
歩行が困難となっていることにショックを受けると、
吐き気にも負けずに食事を摂り、
少しでも早く抗癌剤治療がスタート出来るようにと、
自宅でリハビリを続けました。

ある日、親戚がその家を訪れ、
今一番売れている本で、
とっても面白いから是非読んでみなさい、
と一冊の本を手渡されました。

その本が「医者に殺されないための47の心得」です。

奥さんはその親戚を駅まで送りに行き、
1人家に残されたAさんは、
その本を何の気なしに読み始めました。

1時間ほどして、
奥さんが家に戻って見ると、
Aさんはベッドの隅に枯れ枝のように蹲っていて、
その顔は蒼白で苦悶に満ちていました。
先刻の笑顔が嘘のような変わりようです。
全身の痛みを強く訴え、
モルヒネの屯服の錠剤を続けて飲みましたが、
あまり楽になったようには見えません。

Aさんの口からは、
自分の治療が無駄であったことを悔やむ言葉だけが、
あたかも奥さんへの非難のように、
ある種の呪詛のように溢れ出ました。
それまであれだけ前向きで、
病気と闘う決意を持ち、
自宅でリハビリに励んでいたAさんが、
別人のように変貌してしまったのです。

その2日後の早朝、
Aさんは全身の疼痛を訴え、
呼吸困難に陥ると、
苦悶の中で亡くなりました。
進行癌による死亡として、
解剖はされませんでしたが、
主治医の予想より、
遥かに早い急変でした。

また、こんな事例もあります。

Bさんは70代の女性で、
矢張り肺癌で手術を受けました。
名医の出るテレビ番組を見て、
ここなら大丈夫と確信し、
そこで説明を受け、
納得の上手術を受けたのです。

手術のリスクやその後の再発の可能性などについても、
その時点では納得の行く説明を受けました。

手術後1か月は良好でしたが、
3ヶ月後の検査で、
肺内の再発と肝臓の転移が見付かりました。

その時点で主治医の説明は、
リスクはあるけれども、
この段階では抗癌剤による治療しか、
残された道はない、
という話でした。

Bさんもご家族も、
その時点では主治医の説明に納得し、
リスクも高いという説明には不安を抱きながらも、
少しでも前向きに癌と闘いたい、
という希望を持つことを心に決めました。

ところが…

その日例の本を片手に、
日頃は疎遠にしていた親戚がやって来て、
これを読んでみろ、さあ読めと、
体調の悪いBさんに迫り、
絶対に抗癌剤の治療などするべきではない、
と口角泡を飛ばして言い募ります。

その本に書かれていることによれば、
そもそも進行癌の可能性が高いのに、
最初に癌の手術をしたのが、
取り返しのつかない誤りで、
そのために全身に転移して、
癌の進行が早くなってしまったのだから、
その上に死期を早めるだけと書かれている抗癌剤を、
使用するなどもっての外だ、
と言うのです。

その場で主治医との交渉で中心となっていた家族と、
普段は疎遠にしていた家族とが、
Bさんを挟んで口論となり、
お前が悪い、いやお前が…
と収拾のつかない有様です。

Bさんは自分の治療方針を、
どちらとも決めることが出来ず、
気持ちが折れるように体調を崩し、
衰弱と脱水のために近隣の病院に運ばれ、
数日後に亡くなりました。
点滴のみで経過観察中に、
意識レベルが低下して、
そのまま心肺停止となったのです。

この2つの事例に共通することは、
患者さん自身はその「死の本」を、
読もうという気はなかったのに、
親戚や友達などが良い本だからと無理に勧め、
そこに書かれている事項によって、
自分が癌と闘っている、というイメージ、
闘いに生きる希望を持つ、というイメージが、
無残に打ち砕かれ、
自分が命懸けで選択しやっていたことが、
無駄であるばかりか逆効果であったことを突き付けられ、
更に第2の事例においては、
誤った道を選択することを促したのも、
それを手遅れになってから誤りだと指摘したのも、
どちらも同じ自分の近しい人で、
その近しい人同士が、
そのことで罵り合う様を目にすることで、
全ての希望を失い、
絶望の中で体調を崩した、
ということです。

この本は同じ作者のこれまでの同種の本と比較すると、
意外にその主張は穏当なもので、
「医療などに執着して時間を割かれることなく、
これも運命と受け入れて平穏に死ぬことが一番ではないか」
という、ある程度の年齢の方なら、
誰でも一度は考えそうで、
多くの著名な方がエッセイなどでも書かれているような、
ある意味凡庸な思想が展開されています。

医療は勿論万能ではなく、
無理な治療のために却って命を縮めることもあり、
また適切な治療により助かる方もいます。

問題はこの資本主義の世の中においては、
医療は決して公平ではなく、
特定の恵まれた人だけが、
医療の恩恵を受け、
それ以外の多くの人は、
医療にすがっても、
無残に裏切られることがしばしばだということです。

従って、
やや不穏当な表現をお許し頂ければ、
この資本主義の世界において、
ある命に関わる病気から、
生還出来るかどうかは、
それ自体が一種の戦いであって、
他人を押しのけ自分だけが助かるために、
情報を集めコネを頼り、お金に頼って、
「生の闘争」を続けなければなりません。

しかし、
病気と闘う多くの人にとって、
この状態は非常に辛く消耗することです。
治療そのものの苦痛もさることながら、
ある種のエゴイズムが必要となるので、
人間性を喪失するという危機に、
心が揺らぐのです。

そんな時に、
「何もしないのが一番」
という甘い囁きは、
患者さんの心に強く響きます。

従って、
ある種の達観を求めている人にとって、
こうした本があることは一定の意義があると思いますし、
こうした本を読んで人生の選択を考えることは、
僕は個人的にはもっと別の人の本を読んだ方が良いと思いますが、
誤りとも思いません。

しかし…

一旦は癌と闘うことを人生の目標として定め、
ご家族のサポートと共に、
医療を信じて戦っている患者さんにとっては、
上記の事例でお分かりのように、
この本は非常に強い負のインパクトを持ち、
その人の人生を終わりにしかねない危険を孕んでいるように、
僕には思えます。

その危険は特に、
半ば他人事としてその患者さんに接している、
「遠い親戚」のような方から強制された場合に、
より大きな影響を持ちます。

世の中には多くの本があり、
似たようなことが書かれている本も少なくはありません。

しかし、
この本が別格的なインパクトを持っているのは、
幾つかの理由があるからです。

まず著者の慶應病院放射線科講師、
という権威の効果です。

著者はこれまでの文筆活動により、
非常に著明な方ですし、
慶應病院も日本の医療の最先端というイメージがあります。

医療に詳しくない方が、
「癌は放置するのが一番」と言っても、
専門家ではないから…
と思いますが、
慶應病院講師と言えば、
その大先生がこうしたことを言われているのだから、
という権威により、
その浸透の仕方が大きく違います。

次にこの本の構成ですが、
これまでの同じ著者の本と明確に違う点は、
読者に内容を考えさせるのではなく、
考えさせないように書かれている、
という点にあります。

これは新興宗教の書籍や自己啓発本と同じ趣向で、
「考えるな、信じろ、私に従え」
というメッセージを植え付けるように、
内容が巧みに仕組まれているのです。

そう思ってこの本を読み直してみると、
新興宗教の本に瓜二つで、
「医者に行くと殺される」というアジテーションは、
「○○をすると地獄に堕ちる」というような表現とまるで同じで、
そうならないためには、
「我を信じよ」という主張に繋がるのです。
宗教本では有名人の体験談や、
過去の出来事に対する薀蓄などが、
説得力を増すための仕掛けとして、
間に挟まれますが、
この本ではその代わりに、
「ランセットの論文にこんなのがあった」
という話や、
「癌の有名人は手術したために命を縮めた」
というような話があるのです。

医療従事者がこの本を読むと、
表現は扇情的で下品だけれど、
意外に間違ったことは書かれていない、
というように思います。

全ての癌は手術で治らない、
と言っているのではなく、
その項目に書かれているのは、
あくまで「スキルス胃癌」の話なので、
スキルス胃癌に限定すれば、
その表現は決して誤りとは言い切れません。

しかし、
その合間合間に、
「癌などは切らない方が長生きする」
というような、
全ての癌を一括りにしたとしか思えない、
放言めいたセンテンスが挟み込まれるので、
知識のない方が読めば、
これは全ての癌についての話だ、
と読めてしまいます。

上記の2人の患者さんも肺癌で、
実際にはこの本には肺癌の話など、
殆ど出て来ないのですが、
それでも自分や家族の病気に、
結び付けて読んでしまうのです。

おそらくはかなり意図的な、
文章のトリックが使われているのです。

治る癌は勿論沢山あるのです。

本来は本を読む全ての方のことを考えれば、
治らない癌の話だけではなく、
治る癌の話も一緒に書くべきです。

しかし、
それではインパクトが弱く、
「全ての日本の医療の権威め、地に堕ちろ!」
というようなこの本に籠められた、
作者の裏の意図である呪詛のようなものが、
希薄になってしまうので、
敢えてそうはしていないのです。

知識のない方が読めば当然誤読するように、
全ては仕組まれているのです。

僕が言いたいことは、
どのような本をどのように書き、
どのように売ることも自由ですが、
人間は「希望」がなければ生きていけない生き物なので、
極少数ではあれ、
癌と闘っている方の、
希望を根こそぎ奪うような表現は、
慎むべきではないかと思いますし、
少なくとも実現可能な選択肢を、
提示するような表現に留め、
真実を伝えたい、という作者の気持ちは分かりますが、
今の医療に対しても、
何らかの希望を残すような書き方をするべきではないか、
ということです。

上記のような患者さんがこの本を読むこともあるのですから、
そうした患者さんにとって、
全ての希望を奪うような書き方だけは避けて頂きたいのです。

また、仮にこの本に共感を持ち、
他人に薦めようと思う方は、
どうかこの本の記載が、
その薦める方の人生の希望を奪うことがないかどうか、
今一度思案してから、
それでも有益だと思う時のみ、
他人に薦めて頂きたいと思うのです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

永遠に降り続く雨と絶対に来ない電車の話 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今週はかなり疲れました。

今日は雑談です。

高校の時にクラス1の秀才がいて、
彼(男子校です)は東大が嫌いだと言って、
東工大に入ったのですが、
天気予報について、
ある時こんなことを言っていました。

「昨日の雨の確率は50%だったけど、
雨が降らなかったじゃん。
今日の予報も50%だから、
今日雨が降る確率は、
100%ということだよね」

すぐには意味が分かりませんでした。

ただ、
後になって、
なるほどな、
というように思いました。

彼は天才過ぎたのかも知れませんが、
ある種の特殊な数学的世界に、
生きていたように思います。

確か星新一のショートショートにもあったと思いますし、
「世にも奇妙な物語」にも、
よくあるネタですが、
毎日同じ1日を繰り返す男、
という話があります。

朝起きてある人生の1日を生き、
夜になって眠りに落ちるのですが、
次の日の朝目が覚めてみると、
全く前の日と同じ1日が始まるのです。
その不毛な円環から、
彼は脱出しようとして足掻きます。

これは全くのフィクションですが、
人間は常に毎日を、
その前後の1日と、
基本的には同じ蓋然性を持つ現象であり実体と、
信じて生活をしている場合と、
落ち葉が積み重なって層を成すように、
1日1日がある1日の上に積み重なり、
ある1日の結果として、
次の1日が生じるように、
信じて生活している場合が、
あるように思います。

毎日起る現象が、
独立したものなのか、
それともある種の因果律に沿って、
前日の現象に引き摺られて起る現象なのか、
その捉え方の違い、
と言い換えても良いかも知れません。

ちょっと分かり難いでしょうか?

毎日1回サイコロを振るとします。

どの面が出る確率も、
正確に6分の1であるとします。

この確率論的な意味合いは、
ある「架空の」全く同じ1日に、
振ったサイコロの話です。

しかし、実際には多くの人は、
現実の出来事をそのようには考えません。
考えることに抵抗があるのです。

統計の問題や数学の問題を、
完璧に解く頭脳があっても、
自分の身の回りの事象を、
そのように考えることはしないのは、
どうもよくあることのようです。

ある人は毎日を独立して考えますから、
ある日にサイコロの目が1で、
次の日も1で、
その次の日も1であったとしても、
格別不思議とは思いません。
これが60000回サイコロを振れば、
その時には10000回の1が、
積算としては出ると理解しているからです。

それが、
毎日を連続的に捉えて生きていると、
サイコロの目がある日1に出て、
次の日も1が出て、
その次の日も1が出たら、
そんなことは有り得ないと思うのです。
サイコロの目が出る確率が6分の1であるのなら、
1が出た次の日に出る目は、
1であってはならないからです。

ある薬の副作用が、
1万人に1人発症するとします。

しかし、
実際にはこの薬はまだ、
1000人しか使ってはいません。

この時に、
たとえば1001人目にその副作用が出たとします。

ある考え方を持つ人は、
「それは有り得ない」と言います。
1万人でようやく1人出る副作用が、
1001人に1人出る訳がない、
それは数学的に誤りだと思うのです。

従って、
それは副作用のように見えるけれど、
実際にはそうではなく、
他に何らかの原因がある筈だ、
と主張します。

しかし、
勿論そうではないのです。

1人目の人でも、
1万分の1の確率で、
その副作用が出る可能性があるからです。

仮にそうであれば、
その後の9999人は、
副作用が出ないかも知れません。

しかし、
出るかも知れません。

2人目も副作用が出るとすれば、
その後の19998人には、
副作用は出ないかも知れないからです。

要するに、1人目とか2人目というのは、
人間が勝手に想定した世界の話で、
確率論の世界では、
1人目が実は1万人目でも同じことなのです。

言い換えれば、
確率論の世界というのは、
常に永遠の中途にあるのです。

しかし、
人間がサイコロを振る時には、
往々にしてそうではありません。
人間は自分が行動の主体であると信じているので、
自分にとっての「1回目」から、
数を数えて現象を見ているからです。

被曝した人口は30万人で、
癌になる確率が100万人に1人であれば、
体が3分の1のペラペラの人間でない限り、
癌になる人は増えない、
という考えを、
意外に平然と口にされる方もいます。

そうした発言をする人を見ると、
僕はあまりそばには行かないようにしよう、
と思います。

その人にとっての世界はそうした世界なのであって、
その世界ではある条件の下には、
永遠に雨が降り続き、
時刻表があっても、
絶対に電車はホームには停まらないのです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

人生は物語である、ということ [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は祝日で診療所は休診ですが、
横浜の方で糖尿病の勉強会があるので、
そこに出掛ける予定です。

今日は雑談です。

山口猛さんが、
唐先生の状況劇場に入団した当時のことを書いた、
「紅テント青春録」は、
僕が折に触れて再読する愛読書ですが、
その中にこんな件があります。

唐先生は1975年に、
「任侠外伝・玄界灘」という映画を監督したのですが、
その時に主役の安藤昇が、
ショー用の背広を、
その時安藤さんの運転手をしていた、
若手の唐先生の劇団員が、
忘れてしまったと誤解して激怒し、
その劇団員を叱責しました。

安藤さんの叱責というのは、
それはそれは怖ろしいもので、
その劇団員は飛び降り自殺を考えるほどに落ち込んだのですが、
実はそれはその劇団員のミスではなく、
安藤さんのマネージャーのミスであったので、
安藤さんはすぐに自分の非を恥じ、
高級な洋酒2本に「さっきは怒ってごめんなさい」
という手紙を添えて送ったというのです。

劇団員は安藤さんの男気に感動しました。

僕はこの話がとても好きです。

この話のポイントは、
安藤さんが、
劇団員が主人公の物語に、
ハッピーエンドをプレゼントした、
ということにあります。

安藤さんくらいになると、
自分が主人公の物語で、
自分が活躍するのは当然のことで、
自分が関わった人物に対しては、
その人物が主人公の物語に、
脇役として登場することを厭わず、
そこにその物語なりの、
ハッピーエンドを用意しているのです。

凡人は自分の物語の主人公になることには、
概ね非常に熱心ですが、
他人の物語の脇役に廻ることには、
あまり興味を示さないもののように思います。

こんな話がありました。

僕が非常に尊敬している、
在宅医療の先生がいたのですが、
ある時僕が外来で診ていた患者さんが、
総合病院で癌と診断され、
治療が困難という判断になり、
病院の主治医は、
その在宅医療の先生に患者さんを紹介しました。

僕はその先生に在宅で診て頂けるのなら、
それに勝るものはないと思いながら、
これまでの経緯もあり、
自分も何らかの形で、
患者さんに関わらして頂きたい、
という思いがありました。

勿論病院にご紹介した時点で、
進行癌であったのなら、
こちらの落ち度でもあり、
そうしたことは考えないのですが、
その患者さんは最初の検査値の異常があった段階で、
癌の可能性を疑ってご紹介をしたのですが、
それから診断が確定しないまま、
ただ様子を見るだけで2年余が過ぎ、
最終的に転移の兆候があってから初めて、
診断が確定した、
という正直納得のいかない経緯があったのです。

それでその旨を、
尊敬する在宅医療の先生にメールでお伝えすると、
すぐにご返事が来て、
これは先生(僕のことです)が主治医で担当するのが最善で、
そのように病院側にも話をしますし、
私も全面的にバックアップします、
という内容でした。

僕はその先生の男気に本当に感動しました。

ところが…

何の連絡もなく2週間ほどが過ぎ、
それから診療所に1枚のファックスが送られて来ました。

そこには、
その在宅医療の先生のクリニックの他のドクターの名前で、
当該の患者さんの在宅診療を開始した、
という趣旨のことが書かれていました。

勿論僕が主治医になる、
というような話は何処にもありませんでした。

僕は患者さんご本人とご家族の意向も聞いた上で、
僕自身も患者さんのお宅に定期的に伺い、
その経過を見守りました。

患者さんの最後は、
僕が午後の診療中のことでしたが、
診察室に電話が入り、
その先生の声で、
今亡くなったと、
これも素っ気なく連絡が入りました。

僕がその後で先生のクリニックに研修に伺いたいと、
メールを出しましたが、
ご返事は来ませんでした。

その先生は最初はそのメールの通りに、
僕をサポートするおつもりでいたのだと思いますが、
病院との話し合いの中で、
何か事情が変わり、
お考えを変えて、
僕との約束はないものとしたのだと思います。

僕は一言の説明が欲しかったのです。

先生が変節に至った経緯を、
先生の言葉で、
別に二言三言でもいいのです。

しかし、
先生はそうする代わりに、
その後の僕からのアプローチを、
一切無視し、
最初のメールの内容が実際には存在しなかったかのように、
抹消してしまわれたのです。

僕は先生の「在宅医療一代記」の、
ごく小さな1つの挿話に登場する脇役でしたが、
その挿話は先生の物語からは、
なかったものとして削除されたのです。

また、こんなこともありました。

医師の属する団体があり、
その会合である時近隣の先生から、
団体の役職をやって欲しい、
という話がありました。

その先生自身が、
その時その役職に就いていたのですが、
途中で降りたいという意向があり、
その後任を僕にやれ、
という半ば命令に近いお話でした。

僕は別に役職に就きたいという気持ちはありませんでしたし、
時間的にもきついので気は進みませんでしたが、
どうしてもということなら、
止むを得ないことかな、
と思いました。

その数日後に近隣の先生が集まる会合があり、
その席で正式に議題としてその話が上がり、
僕が役職に就くことが決まりました。

ところが…

それから2カ月ほどが経ち、
役職の候補者が推薦されたという文書が届くと、
そこに僕の名前はありませんでした。

これもまた何か事情があって、
僕が役職に就く話が立ち消えになったのだと思いますが、
非常に強圧的に僕に「お前がやれ」と言われた、
その近隣の先生からは、
たった1本の電話も、
1行の手紙も、
何もありませんでした。

あたかも、
そんな話は最初から存在しなかったかのように、
その先生の「地域の社会派ドクターここにあり」
の物語の1つの挿話からも、
僕という脇役の存在は、
抹消されたのです。

僕の人生は思い返すといつもそんな感じで、
起承転結の結を欠く未完の物語が、
積み重なって構成されているような気がします。

同じようなことが何度もあるのは、
多分僕の方にも原因があって、
それに気付くことが出来ないだけなのかも知れません。

最初の安藤昇さんの挿話が素晴らしいのは、
劇団員に襲い掛かる理不尽な危機、
という短編小説に、
その危機が終結したタイミングに合わせて、
安藤さんの心遣いがあるのがポイントなのです。

僕が同じように謝ってお酒を送ったって、
とても感動は呼びませんが、
安藤さんがすれば感動を呼ぶのです。

これが人徳というか、
人間の格とでも言うべきもので、
映画やドラマのキャスティングと同じように、
現実の世界にも、
矢張り適切な立場と役割というのはあるものです。

僕は物語を愛していて、
今は殆ど時間がありませんが、
小説を書いている時が、
人生で一番楽しい、
というタイプの人間なので、
そう思うのかも知れませんが、
人間は人生を「物語」として生きていて、
それが人間の特性のような気がします。

それは長編小説でもありますが、
その人の感覚の中では、
短編小説の繋がりのようなものでもあり、
その自分が主人公の物語が、
1つ1つ結末を迎えていれば、
その人の人生は幸せですが、
それが宙ぶらりんのままで、
ハッピーエンドでもアンハッピーエンドでもなく、
他者によって放置されると、
それは本人にとっては非常にしんどいことで、
それが要するに人生のつらさや生き難さの、
本質のような気がします。

結婚式に意味があるのは、
それが2人にとって、
その出逢いから幾つかの危機を経て、
結婚という1つの結末を迎えるという意味で、
物語のハッピーエンドとして機能しているからです。

結婚する2人は、
その場で互いに自分が主人公であり、
それが自分が主人公の短編小説のハッピーエンドであることを、
意識していますし、
そこに列席している全ての人にとっては、
自分はこの物語の脇役であることを認識し、
結婚する2人が主役の物語を、
盛り立てる役割を果たすことに、
何の疑問も持ってはいません。

結婚式が素晴らしいのは、
つまりはそのように、
人間にとって理想的な物語空間が、
実現する場であるからなのです。

僕が今思うことは、
僕自身の物語は、
まあこの程度のもので、
結末の付かないモヤモヤした物語の連鎖なのですが、
こんな僕でも、
日々触れ合う他人の物語の中に、
脇役として登場しているので、
そうした他人の物語を、
ハッピーエンドにするために、
自分の分をわきまえながら、
ささやかな貢献が出来るように、
少しでも努力をしたい、
ということなのです。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

医療状況を改善するにはどうすれば良いのか? [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は水曜日で診療は午前中で終わり、
午後は終日レセプト作業があり、
夜は医師会でのBCGの研修会に廻る予定です。

東京も雪が降り出しました。
あまり積もらないと良いのですが…

今日は雑談です。

先日の認知症の講習会で、
興味深い遣り取りがありました。

認知症の進行したお年寄りで、
深刻な問題になることの1つは、
肺炎や骨折などで入院が必要となるような時に、
受け入れてくれる病院がなかなか見付からず、
見付かると今度は受け入れた病院が、
非常に苦労して、
多大な労力を要する、
というような事例です。

認知症の患者さんを積極的に受け入れる医療機関が、
色々な形で指定はされているのですが、
そうした医療機関の多くは精神科の病院なので、
骨折や肺炎などの身体疾患では、
内科や整形外科の患者さんは原則として受け入れが困難なので、
実際には認知症の専門ではない、
通常の総合病院や救急指定病院などの、
医療機関が受け入れることになるのです。

問題はそうした医療機関においては、
通常の患者さんの数倍の労力が掛かるにも関わらず、
病院に入るお金である、
健康保険の診療報酬には、
何らそのための加算などはない、
というところにあります。

行政の認知症に関する立場の説明の後で、
講師の先生にフロアの先生が、
「重度の認知症の患者さんを受け入れた場合の、
診療報酬の加算点数が認められるような動きはないのか?」
という趣旨の質問をしたところ、
講師の先生は、
その質問には直接は答えず、
「要するに個々の病院の位置づけをどのようにして、
どのように連携してゆくかが一番の課題なのだ」
というコメントでお茶を濁しました。

これでは何の答えにもなっていないのですが、
勿論質問の内容は理解していて、
鬱陶しい質問には、
敢えてとぼけて別の答えにすり替えるのが、
この講師の先生のテクニックのように思いました。

その後で登場した、
老年医学の旗振り的な立場の先生が、
後でその話題に触れ、
加算を要求するためには、
看護師の研修の実績が必要で、
その研究の実現のための予算を、
まず認めさせるように、
折衝しているところだ、
という趣旨のご発言をされていました。

その話を聞いて、
なるほどと、
膝を打つ思いがしました。

認知症の患者さんを一般病院で受け入れると、
治療やケアが大変なので、
診療報酬を増やして欲しい、
と素朴な主張をしても、
社会保障の財政も逼迫している折ですから、
行政は首を縦に振ることはないのです。

そこでちょっと視点を変えます。

一般病院で認知症の患者さんを受け入れると、
何故大変なのかと言えば、
一般病院は重度の認知症の患者さんの対応に、
特化している訳ではないので、
多くの人員と時間とが、
その患者さんのケアのために必要になり、
他の業務がおろそかになるという点にあります。

勿論それだけではありませんが、
ここは問題を単純化します。

それを人員を増やすことなく解決するとすれば、
個々のスタッフが、
より認知症の患者さんのケアに、
習熟することが必要だ、
ということになります。

老年医学の旗振り役の先生は、
そうしたことが分かっているので、
まず看護師の研修に予算を付け、
それを利用して全国的に看護師の認知症研修を施行。
認知症サポート看護師、
のような簡単な研修で取得可能な資格を作り、
資格を取った看護師が一定数に達したタイミングで、
今度はそうした看護師がいることを条件に、
加算点数を要求する、
という段取りになっている訳です。

この話を看護師の知り合いにしたところ、
認知症認定看護師という資格があるのだから、
それを活用すれば良いのに、
という感想でした。

しかし、
それは違うのです。

認定看護師というのは、
医者の専門医のような資格ですが、
その人数は少ないので、
診療報酬の取引材料にはならないのです。

行政にとっては、
皆保険という建前上、
全国津々浦々の医療機関で、
同じレベルの診療が行なわれるというのが、
診療報酬に加算を付ける上での、
1つの条件になるからです。

資格は行政との取引の材料にはなりますが、
少数の専門職しか持っていない資格では、
そうした目的には使えないのです。

従って、
形だけでも研修をして、
資格を持ったスタッフを一定数養成し、
その上でその資格者のいることを条件にして、
加算点数が実現するのです。

遠廻りのようで、
これが正解なのです。

ポイントはまず税金で、
資格養成の予算を付けていることです。
これにより、
行政の側でもその責任が生じるので、
将来の加算が認められる下地になっている訳です。

なかなか巧妙ですよね。

このように行政に働きかけて医療状況を改善するには、
常に駆け引きと段取りとが必要で、
ちょっとした要求を通すためにも、
数年後から場合によっては10年後くらいを見据えた、
粘り強い交渉が必要になるのだと思います。

こうしたある種の腹黒さが、
僕はあまり好きではありませんが、
清濁併せ呑むようなところがないと、
大きな状況というのは、
変わっていかないということも、
また事実なのではないかと思います。

今日は医療状況を変えるにはどうすれば良いのか、
というちょっと硬い話でした。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

権力闘争としての実名報道論 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から紹介状など書いて、
それから今PCに向かっています。

今日は雑談です。

某国のテロ事件での、
実名報道が問題になっています。

まず、犠牲になられた方に、
心から哀悼の意を表します。

先日矢張り中東やアフリカで、
技術指導のお仕事をされている方が患者さんとしてお見えになり、
この事件について少しお話をしました。

亡くなられた方の多くは、
一線を退いた後で、
現地に技術指導に行かれていた技術者の方が多いそうで、
今回の事件はイギリスの企業が目当てで、
日本人は裏交渉で大金を払うので、
恨みではなく資金調達のために、
一緒に狙ったのではないか、
と推測を述べられていました。

その方自身またすぐ現地に行かれるとのことで、
今度ばかりは妻に行くなと言われました、
と言いながら涙ぐんでおられたので、
僕も切なくて胸が熱くなりました。

ただ、
今日の話は事件自体ではなく、
実名報道の話です。

政府もその被害者が勤めていた企業も、
被害者の実名は公表しない、
という方針であったのですが、
大手のメディアの方が被害者の遺族に接触し、
言葉巧みに個人情報を入手。
その遺族の方は政府などの発表があるまでは、
公表はしないで欲しいと言っていたにも関わらず、
スクープとして報道し、
その後に政府も実名を公表の方針に転換した、
という経緯のようです。

マスメディアは実名報道の必要性を、
挙って主張しています。

あるマスメディア関係者の方は、
ご遺族への取材は身を切るように辛いけれど、
匿名のAさんが亡くなったという報道では、
社会に対して影響力が少なく、
真実を明らかにし、
ことの重要さを後世に伝えるには、
批判を受けることがあり、
ご遺族の心が傷付くことがあっても、
実名報道がなされるべきなのだ、
というような趣旨のことを述べられていました。

ただ、
この理由は何となく腑に落ちません。

匿名であろうが実名であろうが、
10人の命が失われた、
という事実には違いはない筈です。

また、
日本人ばかりではなく、
多くの外国人の方もテロの犠牲になっているのですが、
その方々の名前はあまり報道されていません。
つまり、
外国人はAさんBさんの扱いです。

この事件を報道で知った一般の人が、
報道が匿名であったために、
事件を早く忘れてしまったり、
事件の重要性を軽視する、
などということが有り得るでしょうか?

それはあまりないような気がします。

少なくとも、
僕は全くそうは思いません。

匿名であっても実名であっても、
事件の重みは変わらないと思いますし、
凶悪事件や重大事件であっても、
その発生からしばらくすると、
その当事者の意向などを慮って、
振り返りの報道などでは、
実名は伏せられることが多いからです。

マスメディアはほとぼりが醒めると、
実名を匿名化します。

この事実は、
上記の関係者の方の説明を、
真っ向から否定するもののように思えます。

つまり、
真実を追究するためとか、
歴史に責任を持つためとかというのは、
口実に過ぎず、
マスメディアが実名報道を執拗に要求し、
その実現のためには、
如何なる非人間的な行為も辞さないことの理由は、
もっと別のところにある筈です。

その理由は一体何でしょうか?

この問題を考えるには、
マスメディアとは一体何なのかを、
考える必要があります。

マスメディアとは何でしょうか?

僕のこの質問に対する答えは、
それは国家に対抗する「権力」である、
というものです。

権力とは何でしょうか?

それは僕のような、
権力を持たない人間を、
屈服させ支配させ意のままに操るような力です。

マスメディアは間違いなく、
そうした力を持っています。

従って、
マスメディアは権力装置であって、
それ以外の何物でもありません。

国家というのは勿論代表的な権力装置です。

権力装置が権力を行使する手段には、
暴力としての武力があり、
そして記号としての言葉があります。
これは情報と言い換えても良いかも知れません。

国家は主に武力を持って権力を行使し、
マスメディアは言葉で権力を行使します。

そしてこの2つの権力が、
拮抗しつつ対峙しているのが、
今の日本の権力構造なのです。

僕も含めて権力者ではない多くの皆さんは、
国家に支配され、
その命令によりお金を払ったり、
届け出をしたりして生活をしながら、
マスメディアの言葉による二重の支配を受けます。
国家による言葉を信じることなく、
それに概ね反対し拮抗する、
マスメディアの垂れ流す言葉を信じるように、
強制される訳です。

従って、
マスメディアの意思は、
基本的に国家の言葉を信用させないことと、
それに反する自らの言葉を、
皆さんに信じ込ませることにあります。

実名報道というのは、
要するにマスメディアが権力を行使する上での、
大きな武器の1つなのです。

プライバシーという、
本来最も尊重され守られるべきものを、
暴き立てるのは、
それが権力の行使であるからです。

こんな酷い非人間的なことは、
権力者でなければ出来ないのです。

だからこそ、
マスメディアはそれをするのです。

それが、
マスメディアにとって、
自分が権力であることを、
証明することになるからです。

今回の事案においては、
被害に遭った企業は、
自分達のプライバシーの庇護を、
国家権力に委ねたのです。
それを受けて政府という権力の窓口は、
「被害者の心情を優先して実名を公表しない」
という決定をしたのです。

しかし、
それは国家に拮抗するもう一方の権力である、
マスメディアにとっては許せないことです。

国民がひれ伏すべきべき対象は、
国家ではなく自分達マスメディアでなければならないからです。

そのために、
マスメディアは国家の「匿名」と言う方針に反対し、
強力に「実名」を主張したのです。

理念などないのです。
国家という権力に反対することだけが、
その理由だからです。

言葉を武器とする権力装置であるマスメディアにとって、
自分達が支配している人間の個人情報を曝すことは、
非常に効き目のある強力な武器なのです。

従って、
マスメディアに国家の指示通りに匿名報道をしろ、
と言うのは、
北朝鮮に対して「核を放棄しろ」と言うのと同じような意味合いなのですから、
絶対に容認は出来ないことなのであり、
その実現のためには、
どんなに卑劣な手段も厭わないのです。

それが要するに権力というものの本質だからです。

僕はただ、
マスメディアが権力であることを、
全て否定する訳ではありません。

昔の全体主義の国家においては、
国家は暴力と言葉の両方の権力を一手に握っていたのです。
それが言葉の権力は分離し、
両者が拮抗するような世界になったのです。

そうした歴史的な経緯には、
一定の意義があると思います。

また自分は匿名の存在のまま、
ネットで他人の実名を曝すような、
個人レベルの「小さな権力者」が乱立することは、
マスメディアの支配よりも、
より大きな弊害をもたらすもののようにも思えます。

従って、
これは誰が悪だと簡単に言い切れるような、
単純な問題とは違います。

マスメディアの方の中にも、
良い人は沢山いる、
と言われる方がいます。

勿論その通りで、
それは官僚にも優れた人は沢山いる、
というのと同じことです。

個々の人間としては、
どちらも優秀で尊敬すべき人達なのです。

しかし、
同時に彼らは権力装置の一部でもあり、
その意味で権力そのものの意思には絶対服従の存在なのであり、
そのことを忘れてはいけないと思います。

権力には理念はなく、
善悪の意識もなく、
正邪の観念もなく、
ただ自らの権力を維持することが全ての目的です。
権力という生き物は常に権力を行使していないと、
その存在が維持出来ない生き物なのです。
空気のような権力は存在しないのです。

従って、そうした権力のしもべに、
たとえどんなやり取りがあったとしても、
個人情報や内部情報という「武器」を渡し、
それが使用されないという約束をして、
それが守られると信じることは、
ちょっと筋違いのことのように、
僕には思えます。

拳銃を渡せばそれは発射されるのです。

あなたの秘密を守れるのはあなただけなのです。
国家という権力もマスメディアという権力も、
それが権力である以上、
あなたの秘密を利用することこそすれ、
決して守ったりすることはないのです。

それが権力というものなのであり、
悲しいことに人間はまだ、
権力なしでは生きていけないのです。

権力者の武器は、
僕達ひとりひとりの持っている情報です。
従って、
僕達全員が協力して、
全ての情報を出さないようにすれば、
権力はその力を失い、
マスメディアという権力装置は死滅します。

ただ、
問題はそれでは社会そのものも死滅する可能性がある、
ということであり、
ひとりひとりの人間も、
自分が「ミニ権力者」となることを欲求しているので、
そうしたミニ権力の蔓延が、
更に悪い事態を招く可能性が高い、
ということです。

僕の考えるこの問題のポイントは、
権力というものをこれからの社会で、
どう考えてゆくか、
ということです。

国家という権力もマスメディアという権力も、
どちらも弱体化し、
この社会はより節操のない「ミニ権力者」の乱立により、
収拾の付かないカオスに陥り掛けているようにも思えます。

要するに人間がもう少し成熟し自立するまでは、
一定の権力は必要なのだと思いますが、
その権力装置が穏当にデザインされ、
必要悪として最小限の弊害しかないように誘導されることが、
社会の安定のためには、
必要不可欠なことではないかと思うのです。

言い過ぎの点があったらお許し下さい。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

2012年を振り返る [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今年も今日で終わりですね。

ついさっきまで寝ていましたので、
多分今年一番よく寝た1日だと思います。

昨日は神奈川にある実家に帰りました。
今年は結局2回しか帰りませんでした。

今年は8月15日に手を怪我して、
生まれて初めて、
入院もしましたし、
手術もしました。

手はまだ万全ではありませんが、
もう一歩のところまで回復しています。

仕事は自分なりに続けていますが、
これでいいのか、
という不安は常にあります。

胃カメラはコンスタントに年300例以上はやっています。
今年は早期食道癌の事例を3例、早期胃癌を2例、
診断して癌専門病院にご紹介しました。

在宅での看取りは今年は7件です。

演劇は結構観てはいますが、
保守的なラインナップで、
もっと面白いものを、
見落としているのだろうな、
とは思います。

良かったと思えたのは、
「藪原検校」と「テキサス」、
「生きちゃって どうすんだ」の辺り。
松尾スズキの1人芝居以外は、
いずれも再演です。
ナイロン100℃の年末の大作と、
シベリア少女鉄道の「ステップアップ」
も悪くありませんでした。

オペラ・声楽では、
何と言ってもデセイ様のルチアが最高で、
ひいきの引き倒しではなく、
良い舞台でもありました。
それ以外にはシェーファーの来日も良かったですし、
グルヴェローヴァの日本最後のオペラの舞台も、
感銘の深いものでした。

歌舞伎は猿之助の襲名があったので、
これには出掛けました。
勘三郎の死には色々と思うところがありますが、
これはまた記事にしたいと思います。

映画は映画館では、
「夢売るふたり」しか観ませんでした。

本も有川浩をまとめ読みしたくらいで、
後はあまり読めていません。

ブログは概ね毎日書いています。

今年の記事では、
iPS細胞でファンタジー系の論文を連発した、
M研究員のことを書いた、
「捏造とファンタジーの世界」と
過換気症候群のペーバーバッグ再呼吸のことをまとめた、
「過換気症候群にペーパーバッグ再呼吸は危険なのか?」
が最もアクセス数が多く、
特に「過換気…」は、
ブログ開設以降、
これまでで最も1日のアクセスが多かった記事でした。

今年は奈良に4回も行ったので、
すっかり「奈良漬け」という感じです。
明日からまた行きます。
ただ、怖いので転びそうな場所は止めておきます。

今年も1年お読み頂きありがとうございました。

来年はもうちょっと色々な意味でどうにかしたいな、
と思いますが、
どうにかならないかも知れません。

来年が皆さんにとって良い年になりますように。

石原がお送りしました。

直線的時間と円環的時間について [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

診療所の本年の診療は本日までとなります。
翌29日より来年1月4日までは、
休診ですのでご注意下さい。
明けの5日の土曜日は通常通りの診療になります。

それでは今日の話題です。

今日は雑談です。

大学の教養学部の時に、
歴史哲学の講義があり、
今もその時の講義ノートは、
大切に保管しています。

大学の講義と言われるものの中で、
一番印象的だったものかも知れません。

歴史哲学というのは、
ある時代に何があったとか、
どんな人がいたとか、
そうしたことを題材にするものではなく、
人間が歴史を語ったりまとめたりする、
そうした行為の裏にある、
思考の枠組みのようなものを、
その研究対象にする学問です。

その講義の中で、
学んだことの1つは、
歴史における時間の捉え方には、
直線的な時間認識と円環的な時間認識との2種類がある、
ということです。

直線的な時間というのは、
常に時間は一方向に流れる、
という考え方です。

この時間の流れの感覚からすると、
ある出来事が起こると、
それが次の出来事の原因となり、
その結果生じた出来事がまた更に次の出来事の原因となります。

この流れは基本的には途切れることなく、
永遠に続きます。

もう1つの時間の捉え方は、
時間は円環をなし循環する、
というものです。

つまり、
部分的な時間を切り取って考えれば、
1つの出来事が次の出来事に連鎖したり乗り越えられたりする、
という点では同一なのですが、
その連鎖は永遠に続く直線ではなく、
あるサイクルで振り出しに戻るような性質を持っています。

そのサイクルは1年かも知れませんし、
10年かも知れず、10万年かもそれ以上かも知れません。

永遠というのはこの考え方からすれば、
存在するものでもあり、
存在しないものでもあります。

それが円というものの不思議さなのです。

こうした考え方自体は、
物凄く古いものです。

おそらく人間が社会的な存在として、
生きるようになってからは、
常にこの2つの考え方が人間の思考の中にはあるのです。

しかし、
おそらく本当の意味での時間というのは、
直線的なものではなく、
円環的なものでもないのではないかと思います。

それを直線にしたり円環にしたりするのは、
人間の心の恣意的な働きなのです。

何を当たり前のことを、
と思われる方があるかも知れません。

しかし、
この歴史認識の違いというのは、
意外に奥が深く、
今でも人間の心を支配し、
その自由を奪っているように思います。

実例でご説明しましょう。

先日選挙がありましたが、
「歴史を決して後戻りさせてはならない」
というような発言がよく聞かれました。

この考え方は、
歴史は正しい道筋であれば、
常に直線的に進歩し、
国民の幸せも生活の利便性も、
常により良い方向に進む性質のものだ、
という直線的な歴史認識を、
そのベースにしていることが分かります。

歴史は正常な流れの中にあれば、
当然決して後戻りなどはしません。
時間の奴隷である人間如きに、
そうした力などある筈もないからです。

それを敢えてそうした言い方をするのは、
正常な進歩を妨げる悪い奴らがいる、
ということを強調したいが故のレトリックです。

正常な流れにあれば直線的に進歩する筈なのに、
それが官僚機構なのか自民党政治なのか何なのかは分かりませんが、
悪い奴らが邪魔するので、
進むべきものが進まない、
ということなのです。

一方で「日本を取り戻す」という発言がありました。

これは基本的には円環的な時間の認識を元にしているのです。

直截に言えば、
「元に戻そう」と言うことです。

これは定められたレールに沿って走っていれば、
時には右に逸れたり左に逸れるように見えても、
同じところに戻って来る、
という時間認識が元になっています。

やるべきことは、
レールやその上を走る車体が老朽化したら、
それを補修することであり、
運航を妨害するような敵が現れれば、
それを撃退することです。

そうしたメンテナンスさえしっかりしていれば、
廻るべきものは廻ってゆくのです。

ただ、
露骨にそう言うと反感を招くのでは、
と警戒するので、
「取り戻す」というどちらとも取れるような、
曖昧な言い方をしている訳です。

経済においても、
景気は循環するという理論がある一方で、
ゆるやかな好景気が、
正しい判断が繰り返されれば永遠に持続する、
というような考え方もあります。

これも理論というより、
円環的な時間認識と直線的な時間認識とを、
ただ経済に適応しただけのようにも思えます。

このどちらの立場に立つのかによって、
何か障害であり何が悪かが、
変貌してしまうからです。

近代は直線的な歴史認識の時代、
と言って良いかも知れません。

科学の進歩というのは、
その象徴的な事象です。

そして、
共産主義や社会主義の思想というのも、
社会が科学と同じように直線的に進歩するという、
直線的な歴史認識に基づいているからです。

科学万能主義を含めて、
こうした思想の虜になっている人は、
円環的な歴史認識を決して認めようとはしません。

しかし、現代は混沌の時代で、
誰もが単純で直線的な歴史認識に対して、
懐疑的になっています。

仮に時間が直線だとすれば、
どう考えても永遠の下り坂が目の前にあり、
逆戻りせずに歴史を前に進めることは、
却って落ちる速度を上げる役目しか、
果たさないようにも思えます。

だからと言って、
単純に円環的な歴史認識に立つとしても、
なすべきことが何であるのかが見えては来ません。

直線的な歴史認識で邁進することが長過ぎた現在においては、
時間がどのような輪をなし、
引かれたレールが何処にあったのかも、
見出すことが困難になっているからです。

社会が直線的に進歩することを、
最早信じなくなった多くの人が、
まだ医療を含めた科学の進歩だけは、
専門家か一般の方かの区別なく、
信じて疑わないのは僕には不思議なことに思えます。

社会の情報量は増え、
科学技術は確かに進歩を続けているように見えますが、
その一方でどう考えても、
その恩恵を受ける筈の人間は、
明らかに劣化しているように思えます。

それは本来円環を成して循環するべき何かを、
科学技術の1方向性が、
歪めてしまった帰結のようにも思えます。

歴史認識というのは要するに時間認識のことです。

僕達は今一度、
何処かで見失ったレールを、
見つけ出す必要があるのかも知れません。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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