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遺伝子検査はそれほど役に立たないこともある、という話 [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は金曜日でクリニックは休診ですが、
老人ホームなどの診療には出掛ける予定です。

それでは今日の話題です。

今日はちょっとした雑談です。

数年前に風疹の若年層の流行が、
大きな問題になったことがありました。

その時に20代の女性で、
発熱と共に全身に米粒大の赤い皮疹が、
出現した患者さんが外来を受診されました。
場所は勿論今の品川ではありません。

頸部のリンパ節の腫脹も認められ、
風疹を疑って保健所に連絡を入れました。

通常全ての事例で個別に検査をしてくれる、
ということはないのですが、
たまたま風疹の流行が問題になっていた、
ということもあったのでしょう、
保健所の担当者の方がクリニックを訪れ、
風疹の遺伝子検査をして頂けることになりました。

同時に採血をして、
風疹の感染初期に上昇するIgM抗体と、
以前の感染の場合に上昇するIgG抗体を測定しました。

その結果…

血液検査ではIgM抗体、IgG抗体ともに陰性でした。

これは判断に迷う結果です。

そして、数日後に遺伝子検査の結果が判明しましたが、
その結果も陰性とのことでした。

要するに風疹はほぼ否定されたのです。

ただ、僕はどうも納得がいきませんでした。
患者さんは麻疹ははっきりした既往がありましたが、
風疹についてはそれはなく、
症状経過からも風疹が強く疑われたからです。

それで、
1か月後に再度検査をする機会があったので、
もう一度IgG抗体価を測定しました。

すると、
1280倍と明確な抗体価の上昇があり、
風疹であったことがほぼ確定しました。

それでは、遺伝子検査では何故陰性だったのでしょうか?

これは何とも言えませんが、
検体を採取するタイミングもあったと思いますし、
ウイルス量などの問題もあったのかも知れません。

いずれにしても、
遺伝子検査も万能ということではなく、
抗体価の測定や臨床症状などと、
適宜比較対照して、
その信頼性を高める必要があるのだと思います。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

お猿のシャーロット [身辺雑記]

思い付きでもう1つ雑談を記事にします。

何処かの国で女の子が生まれたという、
格段ニュースにもならなさそうな話題が、
大騒ぎで報道され、
その女の子の名前の一部がシャーロットである、
ということがまた、
驚天動地の如くに報じられると、
たまたまその時に、
日本の南の方の町で、
動物園の猿の赤ちゃんの名前が公募されていて、
騒がれれば、
そりゃ、シャーロットという名前が多く書かれるのは、
理の当然でしょ。

それで多数決により、
お猿の赤ちゃんの名前がシャーロットになると、
それがまた面白ニュースとして報道されます。

すると、
今度は「猿に外国の王女の名前を付けるとは失礼だ」
という抗議の声が動物園に殺到し、
それがまた扇情的に報道されます。

この段階では、
お猿にシャーロットという名前を付けるという行為は、
「悪」として排斥される流れになりました。

しかし…

これですまないのが、
今の世の中の恐ろしさです。

ネットで幅を利かせているようなご意見番的な人物の多くは、
「お猿のシャーロット」の是非について、
様子見をしてあまり積極的な発言をすぐにしませんでした。

まずは、
「本当にかの国がお猿の名前を気にするのかな?」というような、
観測気球的な発言がチラチラと飛ばされます。

それから、
動物園を管轄する地方都市が、
王女様のお国にお伺いを立てる、
という報道があり、
これに対しては、
「こんなことで外国様に迷惑を掛けるのは恥ずかしい」
という揶揄するようなコメントを出し、
またも様子見の姿勢を取ります。

最終的には「我関せず」という、
大使館からの返事とも言えないようなコメントを持って、
行政はシャーロットという名前を変えない、
という決定をし、
「当然だ。お猿の名前など外国様が気にするものか」
という主張が今度は大勢を占め、
「お猿のシャーロット」を批判して、
炎上を画策したり、その尻馬の乗った人の方が、
「悪」や「愚劣」のレッテルを貼られる事態になりました。

もう一度この流れが反転することが、
絶対ないとは言えませんが、
おそらく「外国のお墨付き」という錦の旗を手に入れた以上、
これを覆すことは困難なように、
現状は思われます。

これが理に適った結論なのでしょうか?

僕は疑問に思います。

この問題に正解はないように思うからです。

お猿にシャーロットという名前を、
このタイミングで付けることは、
やや軽率な行ないであったように、
個人的には思います。

動物園が名前を公募する、ということの意味は、
こうしたことではない、と思うからです。
その時代を象徴するような名前を選んだり、
一番愛されているキャラクターの名前を選んだりして、
これからも末永く、
そのお猿さんの成長に、
地域の人に興味を持ってもらおう、
というくらいの意味ではないでしょうか。

そこに、一番ニュースになっている、
海外の王女様の名前を付けることは、
別に分不相応というような意味ではなく、
単純にちょっと場違いな感じがします。

ニュースはただのニュースであって、
本当に一時的な人気であり、
それほどの興味を多くの人が、
長く持ち続けるとは想定出来ないからです。

公募に対して、
「シャーロット」という名前を書いた方も、
多分殆どの方は、
その時のニュースダネで条件反射的に書いたのであって、
これが数日でも時間がずれれば、
結果は全く変わっていたのではないかと思います。

もう1つの微妙な点は、
「猿」に人間が勝手に命名する、
という行為についてのものです。

SNSやネットで権力を持っている方の少なからぬ方は、
猫などの動物の愛好家です。

たとえばこの話が、
特別な血統の猫に、
シャーロットという名前を付ける、
という話でしたら、
多分こうした問題にはならなかったと思います。
微笑ましいニュースとして、
終わったのではないでしょうか?

それでは何故今回は問題が発生したのかと言えば、
端的に言って「猿」という動物が持つイメージが、
影響をしていることは間違いがありません。

今回「お猿のシャーロット」を、
不謹慎なものとして攻撃し炎上を図った人達も、
これが猫の名前なら躊躇した筈です。

猫の背後には「猫好き」がいて、
巨大な権力と勢力とを持っていて、
その「猫好き」がどのような反応をするのかが、
俄かには判断出来ないからです。

彼らに一斉に牙を剥かれれば分が悪いのは明らかです。

しかし、それが猿なので攻撃は行なわれました。

それは、猿という動物自体の問題ではなく、
「猿」という言葉に付いたこれまでのイメージが、
「不謹慎」という事実を補強するもののように、
攻撃する側には感じられたからではないかと思います。

これは勿論一種の差別です。

悪いイメージを持つ猿とシャーロット様を同一視するのはけしからん、
という攻撃の趣旨は、
「断りもなくそうしたことをする礼儀知らずめ」
というニュアンスと共に、
猿は愚かしいものや愚劣なものというイメージがあり、
そうしたものとシャーロット様を同一視するのはけしからん、
という意味であるからです。

「猫好き」もちょっと迷ったと思うのです。

猫と猿を同一視することに、
おそらくは少し抵抗があるからです。

それが、今回様子見のような現象が生じた、
主な要因と思われます。

猿と猫と人間とを、
全く同じものとして並列に扱うのか、
それともどれか1つを特別なものとして扱うのか、
この問題が闘いに発展したような場合、
その根本にある心理が、
炙り出される可能性があるからです。

「好き」というのは、
つまりは相手を特別視する心理なので、
それは差別感情と極めて良く似ているのです。

今の世界においては、
「差別」というものが絶対悪です。

それも特に人種などの血統に属する差別、
男女や出自、職業など、
人間の属性に関する差別は、
そうしたレッテルを一旦貼られることにより、
地位や名誉や肩書の、
全てを失いかねないような重みを持ちます。

実際に些細なことでつるし上げを受け、
一生挽回不可能なようなダメージを受けた事例は、
最近では枚挙に暇がありません。

しかし、その一方で人間というのは、
いやより広く生物というのは、
基本的に差別をする性質があり、
差別は人間を含む生物の本性のようなものです。

全ての行為は差別的で、
全ての言葉は差別意識を内包しています。

それが生物というものであり、
だからこそ競争が生まれ、
進歩が生まれ、愛が生まれるのです。

要するに差別感情というのは、
他の動物を押しのけて、
人間がエラそうな顔をしていられる源泉のようなもので、
ある種の必要悪なのですが、
生物の中でそうした良い思いをしていることへの、
一種の疾しさのようなものが人間にはあるので、
「人種差別は良くない」
というような綺麗事を言い、
そのために争いまで起こすことによって、
その疾しさを相殺しようとしているのです。

ですから、
一番問題があるのは、
シャーロットという名前を付けたことではなく、
動物に相手の意思を確認することなく、
勝手に名前を付けてラべリングする、
という行為そのものの差別性にこそある訳です。

しかし、それを言いだせば、
全ての命名行為とはそうしたものなので、
全ての人間がそうしたことをしているのが実際で、
偽善で生きて威張っているような人も
火の粉を被りかねないので、
今回はそうした皆さんにも躊躇があり、
結局は「外国の大使館のご意見」という、
錦の御旗が出るまで、
表立った発言がなかったのではないかと思います。

最後に僕の考えるシンプルな正解は、
動物園が以下のような発表をする、
というものです。

担当者が猿山の猿の皆さんによくよく相談をしたところ、
「まあ、お前ら人間が勝手に俺達に名前を付けるのは、
気に入らねえけど、
今に始まったことじゃないし、
好きにすればいいさ。
でも、シャーロットってのは何か馴染めない名前だから、
変えてくれよ」
という回答を得たので、
「○○」という名前に変えることにしました、

要するに相談するのはかのお国の大使館ではなく、
お猿の皆さんであるのが筋ではないか、
ということです。

皆さんはどうお考えになりますか?

橘寺と撒かれた油の話 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。

今日は雑談です。

ゴールデンウイークには、
いつものように奈良に行ったのですが、
ちょっとブルーな気分になったのは、
例の文化財に撒かれた油の被害を見たからです。

僕が見たのはこちらのお寺です。
橘寺.jpg
橘寺は聖徳太子に縁の古寺で、
明日香村の小高い丘の上に、
堀に囲まれて城塞都市のようにそそり立っています。

遠くから見たそのビジュアルは、
本当に城塞都市か山城のようで素敵です。

聖徳太子像を祀る本堂(太子殿)が、
上のチケットの写真にもなっているのですが、
ここも「油撒き男(性別は仮称)」の餌食となっていました。

このお堂では、
内陣の畳と木の床に跨るようにして、
黒い染みが飛び散るように残っていました。

瓶か何かから、
バッと一気に掛けた、
と言う感じの飛沫です。

お寺の方にお聞きした話では、
朝の掃除の時には何もなく、
それから2時間ほどの短時間の間の出来事だったそうです。

このお寺は、
奈良の観光地としては、
比較的マイナーな部類ですから、
2時間でそれほどの参拝者はいません。

ですから団体客ということではなく、
個人の参拝者であったことは、
この橘寺の事例のみでは、
間違いのないことなのです。

撒かれた場所は、
丁度お堂の正面向かって左にある受付からは、
柱で死角になる場所でした。

つまり、意図的にその場所を選び、
誰にも見られていないことを確認の上、
一瞬で油を撒いたことにほぼ間違いはありません。

従って、以上のような情報から、
これが何かの儀式などではなく、
「汚れなき悪戯」の類でもなく、
純然たるいやがらせの一種であって、
しかも、撒いた本人には、
それが疚しいことだという自覚があって行なったであろうことも、
ほぼ推測が可能です。

誰にでも触れられる場所にあり、
誰でも汚すことも壊すことも可能である筈の、
1つの素朴な信仰の対象が、
数百年、時には千年を経て残っている、
ということの奇跡に、
素朴に感動したいと願うのが、
僕の奈良行きの主な目的ですが、
色々なものが少しずつ汚され、
悪意によって少しずつ滅んで行くのを、
目にしないといけないのであれば、
そろそろ足を洗った方が良いかな、
と思わなくもありません。

橘寺の観音堂には、
藤原時代の優れた如意輪観音がいらっしゃって、
これも非常な楽しみなのですが、
お堂はかなり荒廃した雰囲気で、
補修の寄付が募られてはいますが、
いつ着工になるとも知れません。

その御前で金500年の写経(もどき)をして、
手を合わせ、静かにお寺を後にしました。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

無能な医者がいることを前提に医療の質を上げるにはどうすれば良いのか? [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。

今日は雑談です。

確か、野田秀樹の「農業少女」の中の台詞だったと記憶しているのですが、
たとえば100人の同じ人が集団で仕事をしていると、
同じ人の筈なのに、
そのうちの10人は確実に怠けていて、
仕事をしないで全体の効率を下げているので、
その10人を排除してしまうのですが
そうすると今度は残りの90人のうちの9人が、
矢張り同じように怠けてしまう、
というような話がありました。

「農業少女」はナボコフの「ロリータ」を下敷きにしているので、
ひょっとしたらそちらに同じような話があるのかも知れません。

全く同じクローン人間でも、
沢山集まればそうしたことが起こる、
というのがこの話の肝で、
人間というものの本質を、
何か鮮やかに提示されていたようで感心した覚えがあります。

人間である以上、
どんな集団にどんな教育を施し、
どのような強圧的な仕組みで運営しようとも、
その仕事集団には、
必ず一定の比率では無能な者や怠け者がいて、
全体の統率を乱します。

しかし、集団そのものには、
集団としての水準というものはある訳です。

脱落者や怠け者や無能者がいるからといって、
その異分子を集団から排除すれば、
集団の質が向上するかと言えば、
決してそうではない、
というのがこの話の教訓です。

失敗は許されないという仕事があり、
警察や消防や司法などと並んで、
医療もその1つです。

異物混入と同じように、
失敗を許されない仕事に、
実際にミスがない、ということは有り得ないのですが、
信頼というのはこうした仕事の権威を守る意味において、
非常に重要な幻想の盾なので、
集団の中での無能者が、
取り返しの付かないようなミスをしても、
それをないものとして隠したり、
取り繕ったりするのが、
少し前までの組織防衛の手段でした。

集団によっては、
今でもこうした対応を、
取っているところはあるのではないかと思いますが、
医療の世界においては、
これまで守られていたミスは、
内部告発で明るみに出され、
そうしたことが大好物のマスメディアによって、
バラエティーショーの生贄として、
大衆の餌として娯楽に転化されるようになりました。

勿論医療ミスというものは、
患者さんの命や身体に直結し、
そこに多くの被害をもたらす可能性のあるものですから、
それが不用意に隠されるということに、
大きな問題があることは間違いがありません。

しかし、
だからと言って、
それが面白おかしくある種の懲罰のように、
娯楽として垂れ流されるのがあるべき姿とは思えません。

医療の世界、特に医者の世界において、
その権威の失墜が顕著になったのは、
一種の内輪揉めが、
日常茶飯事で起こるようになった点にもありました。

その集団において、
自分は100人のうちの90人であって、
無能な10人ではないと信じ、
この集団ではそうした落伍者は許されない、
と信じているプライドの高い医者は、
ある時は勤務医による開業医への罵倒の形を取り、
ある時は製薬会社からの情報を無邪気に信じる同業者への罵倒や、
過去の常識をアップデートせずに、
日々の診療を続けている先輩への罵倒などの形を取り、
自分は正しい仕事をしているのに、
自分の属する世界には、
誤った仕事をしている無能な奴らが多いと、
それを一般の多くの方が見ている、
SNSのような世界で、
「娯楽」として垂れ流します。

製薬会社と医者との癒着が、
問題であることは事実でしょう。
しかし、交流のある世界での情報のやり取りにも、
一定のメリットはあるように思います。
それを、製薬会社の担当者から情報を得るような医者は無能だ、
というような言葉を、
呪詛のように垂れ流すのは、
僕にはとても節度のある態度とは思えません。

正しい診療や正しい治療、というものは、
確かに存在することは確かでしょう。
しかし、一般に使用が許され、
適応病名もあり、保険収載もされている医薬品について、
それを使用しているというだけで、
「無能な医者」のように言い募るのは、
如何なものでしょうか?

それも1つの排除の論理であり、
そうした攻撃的な言動を繰り返すことで、
結局は集団の質を下げることに繋がるのではないでしょうか?

こうした攻撃によって無能者を吊るし上げ排除しようとすると、
無能ではないけれど有能であるとも信じられない、
大多数の医療者は、
自分で考えることを止め、
「権力者」に付いていこうとするのではないでしょうか?
本当は製薬会社の担当者から、
情報を得ることもメリットのある場合もあり、
「悪の薬」のように言われている薬も、
それほど悪いものではないと思っていても、
そんなことは言えないので、
却って自分で考えることを止め、
思考停止に陥るのです。

こうしたやり取りで、
この集団の質が向上するとは僕には思えません。

それでは、どうすれば良いのでしょうか?

僕の個人的な考えは、
どんな集団であれ無能で不勉強で怠け者はいるので、
それを当初から織り込んだ上で、
その集団全体として、
その無能者をフォローし、
彼らのミスが決して被害をもたらさないように、
トータルにカバーするようなシステムこそが、
求められているのではないか、というものです。

不勉強な医者もいれば、
勉強熱心な医者もいて、
器用な医者もいれば不器用な医者もいるのです。

医者は障碍者や恵まれない人のためにつくそうとか、
そうした気持ちを開陳される方は多いのですが、
不勉強で怠け者の医者をサポートしようとか、
助けようとはあまり思いません。
ただ、僕はそれはそれほど違うことではないのではないか、
いついかなる時でも、
集団の中で、そこから遅れる成員が生じるのが、
人間というものの特性なので、
集団は常にその遅れた成員のために、
フォローする心を持つことこそが、
その集団の質を高め、
それが仕事の集団であれば、
トータルにその仕事の質を高め、
ミスを減らすことに繋がるのではないかと思えるのです。

個人的に思うことは、
重要な方針の転換は、
医療界全体で足並みを揃えて行なってゆくことが、
最も重要ではないかということです。

ある薬が良くないことが分かったとして、
それが通常の手続きで、
継続的に患者さんに使用されているものであるなら、
その使用を控えるような流れを作ってゆくことは、
それほど簡単なことではありません。

そうした中で、
外野に向かって、
「俺はこの薬は悪い事を知っているから使わないぞ!」
と叫ぶようなことをすると、
実際には多くの医療者が、
まだ患者さんにその薬を使っていて、
それは別に違法なことでもなく、
既に海外では使用が禁じられている、
という類のことでもないのですから、
殊更に患者さんには不安を招き、
また主治医への不信を募らせるだけで、
トータルな医療状況として見た時には、
むしろネガティブな影響を多くするのではないでしょうか?

無理解な医者や不勉強な医者も含めて、
全ての医療者がその薬を処方しない方向に、
無理なく向かえるような環境作りこそが、
まずは必要なことなのではないかと思いますし、
代替的な治療なり、より望ましい治療があるとして、
その方向に、
全体で無理なくシフト出来るような方法を、
集団全体で模索し、
それがしっかり定着の方向へ向かうまでは、
無用に集団内の脱落者を非難し、
利用者である患者さんを不安に陥れるような行為は、
たとえ善意であっても、
慎むべきものではないでしょうか?

僕が研修医の頃の、
学会の指導的な立場の先生は、
その多くが非常に紳士的な態度で、
学生には物凄く厳しかったのですが、
一旦同じ医者として接すると、
本当に同等の立場として、
ちょっと不気味に思えるくらい、
丁寧で控え目で、
こちらを立てるような話し方に終始していました。

こちらの疑問点に関しては、
本当に噛んで含めるように説明してくれました。
要するに今思えば、
僕のことを「無能な同業者」として理解し、
その上でこちらのレベルに自分を落として、
医師の世界をトータルに守ろうと、
そうした姿勢を取っていたように思います。

色々な医者がいることは勿論確かなことでしょうし、
批判的な発言を敢えてされる方は、
勿論有能な方で、
素晴らしい見識と技術と知性をお持ちなのでしょうが、
それでも、
同業者を悪し様に罵ることは、
結果として医者の集団全体の評価を落とし、
信頼を失わせる行為になるのではないでしょうか?

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

ある学会のガイドラインはどうしてこんな感じなのか? [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は水曜日なので、
診療は午前中で終わり、
午後は産業医の面談に廻る予定です。

今日は雑談です。

昨日前立腺肥大についての記事を書きましたが、
その時に日本の前立腺肥大症のガイドラインを、
参照として読んでみました。

それがこちらです。
前立腺肥大症のガイドライン.jpg
皆さんは何か不思議に思われないでしょうか?
そう、年号や何版かなど、
作成された年月日を示す記載が何処にもありません。

中身を見ると、
最初の「序」に2011年4月の記載があります。
まとめられたのが2011年のようです。
そこにはビックリすることに、
前回のガイドラインは2001年で、
10年間改訂はされていないと書かれています。

ガイドラインというのはその時点での最新の治療の指針である筈です。

前立腺肥大症という、
極めて一般的な病気の治療の指針が、
専門の学会において、
10年間改訂されない、と言う事実にもビックリですが、
本来2001年のガイドラインの改訂の筈なのに、
その記載が本文の何処にも存在しない、
ということにも驚きます。

こんなことで本当に良いのでしょうか?

当該の学会のサイトを見ると、
物凄く多くの個別の疾患や症状のガイドラインが、
作成されていることが分かります。

しかし、改訂がされているものはそのうちの極僅かで、
殆どは「出しっぱなし」に終わっています。

中には2007年に作成された、
悪名高い「LOHガイドライン」も堂々とまだ載っています。
所謂男性更年期のガイドラインで、
日本独自の診断が提唱されていて、
発表当時は健康番組で頻繁に紹介されるなど、
大きな話題になりました。
しかし、近年欧米ではその存在自体が否定される傾向にあり、
多くの文献が発表されていますが、
未だ改訂はされていません。

勿論日本独自の治療指針があっても、
それはそれで良いのですが、
議論となり海外の治療や診断と大きな乖離が生じているのですから、
少なくとも改訂作業は迅速に進めるべきではないでしょうか?

特定の学会の批判をするつもりはありません。

実際には日本のガイドラインには、
少なからずこうしたものがあり、
この学会だけの問題ではないと思います。

ガイドラインというのは、
多くの医療者に共有されるべき、
公共性の高い情報だと思います。

しかし、たとえばこの学会のサイトを見ると、
殆ど全てのガイドラインは、
学会の会員のみ閲覧可となっています。
血尿のような一般的な症候のガイドラインは、
少なくとも無料でダウンロードは出来るのが、
学会自体の公共性というものではないでしょうか?

臨床医学の学会がまっとうなものであるというためには、
その関わる疾病についての、
ガイドラインを作成すると共に、
それを当然のことながら、
定期的に改訂してアップデートし、
その成果は広く公開して、
多くの医療者に金銭負担なく提供するのが、
最低限の条件ではないでしょうか?

皆さんはどうお考えになりますか?

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

下記書籍引き続き発売中です。
よろしくお願いします。

健康で100歳を迎えるには医療常識を信じるな! ここ10年で変わった長生きの秘訣

健康で100歳を迎えるには医療常識を信じるな! ここ10年で変わった長生きの秘訣

  • 作者: 石原藤樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/アスキー・メディアワークス
  • 発売日: 2014/05/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)





専門家フィルター論 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は水曜日なので、
診療は午前中で終わり、
午後は産業医の面談に廻る予定です。

今日は雑談です。

昨日記事にしましたように、
人間ドック学会が自分達の研究の中間報告に過ぎないものを、
わざわざ報道機関にのみ公表し、
その思惑の通り、
あたかも既成事実であるかのように報道されたことで、
毎日のように診療中にその説明をする状況が続いています。

それが、
血圧の正常値が147に引き上げられた、
という内容のものです。

多くの患者さんはこの結果がただの中間報告で、
しかも単年の結果に過ぎず、
今後の議論の叩き台の1つに過ぎない、
という説明で一応理解はして頂けるのですが、
絶対駄目で説得などお手上げのケースもあります。

あるAさんという患者さんは、
高血圧のお薬を継続的に飲まれていて、
診察室での血圧は130/76にコントロールされていました。

定期的に血液の検査も行なっていたのですが、
ある時近藤誠という人の本で、
全ての健診は無駄なので止めた方が健康に良い、
という内容を読んだので、
今後一切血液検査はしたくない、
と診察の時に言われました。
無駄に長生きはしたくない、と言うのです。

それは確かに無駄な検査もありますし、
厳密な検証をすれば、
多くの健診に生命予後の改善効果などの認められないことは、
それは事実ではあるけれど、
高血圧の薬を継続的に飲んでいる以上、
薬の弊害や高血圧の予後に関わる検査を、
定期的にすることに意味がないとは言えない、
という意味合いのことを、
多分30分くらい掛けて説明したのですが、
近藤先生がこう言っていたからの一点張りで、
僕が何を言おうと聞き入れてくれる様子はありません。

そもそも本に書いてあることは、
その多くが癌検診の話で、
定期的な診察時に適宜行なう検査についての話ではないのですが、
そんなことを言っても、
所詮は聞いてはもらえないのです。

それでカルテにはその旨記載して、
検査は行わないことにしました。

長生きはしたくない、ということであれば、
血圧の薬を飲むこと自体も、
そう厳密な意味で意義のあることとは言えず、
飲む必要もないのではないかしら、
と思いましたが、
Aさんの頭の中では、
血圧の薬を定期的に飲むこと自体は、
一定の意味のある行為であるようでした。

そして、
今回の人間ドック学会の報道があってから受診したAさんは、
「血圧の基準値が上がったそうですね」
と言いました。
「新しい基準値なら薬を飲む必要はないと思うので、
もう薬を飲むのは止めることにしました」
と続けます。

一応少し話はしました。
でも、無駄だと言うことはほぼ分かっていたので、
それほどしつこくは言いませんでした。

Aさんはこうした人で、
僕の説明が通じるような人ではないことが、
前回のやり取りで分かっていたからです。

本来医者と患者さんとは、
ある治療や検査をすることに対して、
同じ目標と認識とを持ち、
一種の契約をした上で、
診断や治療を続けるのがあるべき姿だと思います。

しかし、実際には意思の疎通が困難なケースもありますし、
一見スムースに廻っているように見えても、
医者の認識と患者さんのそれとは、
乖離しているケースも多く存在していると思います。

僕はこれまでの経験から、
人間同士は分かり合えないことの方がずっと多く、
そうした場合に議論をするのは無駄なことが多い、
という考え方なので、
たとえばAさんのような方を、
説得する愚を犯すことは、
極力控えるようにしています。

一般の方は「病気」ということについては非常に敏感です。

「健康」と「病気」とは常に対立概念として認識され、
病気は何か禍々しいものとして、
忌むべきものとして、
科学としての医学などからは離れたところで、
人間の心の中に1つの大きな位置を占めています。

従って、病気と病気ではない状態との境目は、
明確なものでないといけません。

それが曖昧であることは、
頭の中の善悪を区別するという回路を不明瞭にするので、
人はその不安に耐えることが出来ないからです。

一方で科学としての医学においては、
病気の概念はむしろあやふやなものになり、
その境界も明確なものではなくなっているのがトレンドです。

高血圧などもその代表で、
正常と異常との明確な区分けはなく、
「動脈硬化の病気の予防のためには、
これこれの血圧を目指すことが望ましい」
というようなボーダーラインを重視した診断基準になっています。

しかし、一般の方の感覚はそうでないことが多く、
テレビなどで130を越えたら血圧に注意、
というようなCMが流れれば、
130を越えると「高血圧」という病気になって、
薬による治療が必要になる、
というように判断しがちですし、
今回のように人間ドック学会の新しい基準値では、
147までが正常と判定される、
というような報道を見れば、
今まで俺の血圧は140だったので、
高血圧という病気で治療を受けていたけれど、
今回147までが正常に変わったので、
俺は病気でなくなったのだから、
もう医者に行く必要はない、
というような理解になりがちなのです。

その意味で、
基準値の発表や報道というものは、
一般の方に大きな影響を与えるものなので、
それを報道したり発表する場合には、
本当に慎重な配慮が必要なのですが、
今回の人間ドック学会の一件では、
学会にも報道機関にも、
その意識が欠如していたことが、
僕は大きな問題だと思います。

僕の尊敬している新潟大学の疫学の先生は、
日本人のデータを元にして、
脳卒中の発症リスクを簡便に計算可能なソフトを完成された際に、
それを一般の人の簡単に目に触れる形では公開せず、
その代わり臨床に携わる医療従事者には、
広く使用可能なように発表されました。

それは、
決して情報を隠したということではなく、
この計算ソフトを一般の患者さんが使用すると、
たとえばそのまま喫煙した場合のリスクと、
今禁煙した場合のリスクとを計算して、
何だこの程度しか下がらないなら、
禁煙は止めよう、というような、
自分に甘い安易な言い訳のツールに、
使用されることを危惧されたためです。

こうした配慮こそが見識であり、
疫学の専門家とはこうした方であるべきだと、
僕は思います。

専門家はフィルターの働きを果たすことこそが使命なのです。

多くの情報をそのまま垂れ流すのは、
その一般の方への影響を考慮する想像力のない、
素人のすることで、
専門家はその情報のうち、
一般の方に誤解を与えるようなものをすくい取り、
濾過して、
適切な情報を一般の方に送り、
誤解を与える情報については、
それをより誤解なく伝わるように修正したり、
それを伝えても問題のない時期に、
改めて公表するような処置を取るのです。

恣意的ではなく、
それでいて不用意に隠匿するのでもない、
適切で便利な情報フィルターの役割こそが、
一般の方にとっての専門家の最大の意義であるように、
僕は思います。

人間ドック学会の責任者の方は、
自分達の研究による基準値の意味が、
誤って報道機関で誤解を招く記事にされた、
というような説明をされているようですが、
それはあまりに無責任な見解のように思います。

報道機関は誤解するのです。
誤解するのが彼らの仕事だからです。
そんなことは当たり前のことで、
そもそも基準値というものは、
病気と健康を二元論で考えている多くの人にとっては、
非常に大きな意味を持つものなのであり、
卑しくも疫学の専門家を名乗るなら、
そのことを肝に銘じる必要があるのです。
そして、そうした見識を持っていれば、
中間報告の段階で、
まだ単年の検査の段階で、
その数値を報道機関に発表するような愚は、
決して犯すことはないのです。

僕はですから今回の発表を絶対に許しません。

報道で誤解されたと説明すればそれで済むのでしょうか?

今回の発表で混乱されたり、
治療を取りやめたりした多くの患者さんに対して、
どう責任を取ってくれるのでしょうか?
僕の無駄な説明の労力と、
臨床の現場の混乱に、
どう責任を取ってくれるのでしょうか?

せめてAさんに個別に連絡を取って説明して頂けませんか?

少なくとも、
150万人のメガスタディなどと浮かれて、
個々の人間を数字として見ているあなた方に、
基準値などは永久に決めて欲しくはない、
というのが僕の言いたいことの全てです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

捏造する天才と捏造しない凡人の話(勿論逆もあり) [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。

今日は雑談です。

医学関連の論文の捏造が、
最近報道を賑わすことが多くなりました。

ただ、捏造や不適切なデータ操作などと一口に言っても、
その内容は様々で、
間違いなく捏造と言えるものから、
うっかりミスというレベルのもの、
今では許されないけれど、
少し前までは問題ないと考えられていたもの、
確かに意図的ではあるけれど、
心情的には多くの研究者が理解可能なものなど、
様々な性質のものがあります。

更には医学の研究には臨床研究と基礎研究とがあり、
その両者にはかなりの違いがあるので、
それを一括りに捏造と表現するのも、
問題が大きく一般の方の誤解を招くもののように思います。

僕が基礎研究をしていたのは、
大学院に在籍していた時と、
その後の数年くらいに過ぎないので、
それほどの経験がある訳ではないのですが、
データの扱いなどについては、
研究をされたことのない方よりは、
理解をしているつもりなので、
今日はその辺りの問題を、
僕なりに整理をしておきたいと思います。

医学には臨床研究と基礎研究とがあります。
臨床研究というのは実際の患者さんの血圧や血糖値などのデータを取り、
そこから一定の結論を導き出すものです。

ディオバンという薬のデータに不正があり、
製薬会社と特定の大学教授などとの不適切な関係などもあって、
大きな問題となったのは、
皆さんご存じの通りですが、
これは要するに臨床研究です。

それから、神経疾患の治療薬の効果を見る研究において、
患者さんの心理試験のデータなどに不適切な点があったとして、
問題になっている事例もありますが、
これも臨床研究です。

臨床研究における不適切な行為として、
最も多いのは、
都合の悪いデータを取り除いたり、
条件を後から変えたりして、
本来は出なかった結論を出たように変えてしまう、
というものです。

ディオバンの事例はかなり露骨なもので、
本来は別の薬と比較して、
血圧が同じであれば脳梗塞などの発症には、
差がなかったのですが、
それを数字自体を書き換えて、
発症が抑制されたように見せかけた、というものです。
これは明確に捏造です。

医学の研究者の99%の方はこうしたことはしません。

ただ、神経疾患の治療薬の事例は、
本来は時間を決めて行わないといけない検査が、
そうした記載のない不備なものだったので、
後から不備がなかったように体裁を取り繕った、
というもので、
これは状況によっては少なからぬ研究者が、
手を染める可能性のあることのように思います。

結果にはほぼ間違いがないのです。
それはデータを見れば分かります。
ただ、本来するべき手順を踏んでいなかったり、
書き込まれるべきデータがなかったりした場合、
その不備を後から修正することは、
倫理的にはそれほどの問題がないことのように、
考えてしまうケースがままあるように思います。

更に良くあるケースでは、
予め設定されていた条件を、
後から変えてデータを解析する、
というものがあります。

たとえば最初は50歳以上の男女として、
データを解析したのですが、
それではうまく治療の効果が出なかったので、
今度は65歳以上の女性に、
患者さんを絞って解析すると、
今度は思い通りの結果が出たとします。
この場合、最初は50歳以上という設定で研究を開始し、
それで有意な差が出なかったので、
これこれの理由を持って、
65歳以上の女性に絞り込みを行なった、
のようにそのままに記載すれば、
何ら問題はないのですが、
最初から65歳以上の女性のみを対象として試験を行なった、
というように書いてしまうと、
それは一種の捏造になるのです。

最近の特に一流の医学誌の文献では、
そうした途中でのデータの絞り込みの変更が、
事細かに記載されています。

ただ、少し前までは、
条件の後からの変更は、
割と頻繁に行なわれていたと思います。

臨床研究というのは、
相手が人間ですから、
それが特に大規模なものになると、
時間もお金も掛かります。
関わる人間の数も多くなります。
そうなってくると、失敗は許されないということになり、
規則を逸脱した修正が起こり易くなるのです。

ただ、ディオバンのケースはかなり特殊な事例です。
捏造を行なったのが誰であるのかは、
特定はされていませんが、
かなり特異なキャラクターを持った個人が、
単独で行なったことだと個人的には思います。

一方で基礎研究というのは、
動物実験や細胞を使ったような実験で、
病気のメカニズムなどをより詳細に検討しようとするものです。

患者さんから採取した血液などの検体が、
使用されることはありますが、
それはあくまで材料としてであって、
人間そのものが対象となる訳ではありません。

時間の掛かる研究もありますが、
臨床研究のように数年以上観察して…
というようなことはありません。
基本的には実験毎の結果はその度に出て、
それを組み合わせて1つの結論を導き出します。

関わる研究者の数も、
それほど多くはありません。
全くの個人で研究を行なうケースもありますし、
通常は数人のグループで、
責任者の指導のもとに行なわれることが多いのです。
ただ、実験に使用される技術は、
それぞれに得意の分野がありますから、
最近多いのは他施設の、それも世界を跨いだ共同研究で、
細胞の培養はイギリスのこの施設で行ない、
その細胞の機能の解析は日本の研究施設で、
ある成分の分析はアメリカの研究所で…
というようなケースが典型的です。

個人的な経験からお話すると、
僕の学位論文は膵臓のβ細胞からのインスリン分泌の調節についてでしたが、
これはネズミを解剖して膵臓を取り出し、
β細胞のあるランゲルハンス島をばらして、
それを様々な条件にして、
その時のインスリンの産生を測定する、
という段取りのものです。

1回の実験は準備を含めて1から2日で終わりますが、
データはなかなか思い通りには出てくれません。

採取したランゲルハンス島の質が悪かったり、
採取の仕方にミスがあったりすると、
当然出るべき反応が出ないので、
同じ実験をやり直さないといけないのです。

予め、こうした実験をこのように組み合わせれば、
こうした結果が出る筈だ、という想定があるのですが、
1つ目に躓けば次に進むことは出来ません。

新しい条件を設定して、
想定外の結果が出れば、
それは当初の想定とは違ったことが起こったことになり、
新たな発見に繋がることもあります。

ただ、実際には予想通りの結果が出ないのは、
実験の手技の未熟さや、
実験のデザインの不備によることが多いのです。

こうした時に、
ちょっとした誘惑があります。

出るべき反応がたまたまランゲルハンス島の質により、
出なかったのが確実であれば、
出たことにしてしまえば、
同じ実験を繰り返す必要はないではないか、
という誘惑です。

僕がその時師事していた先生は、
非常にそうした点には厳格な方でした。

ある時僕のミスで、
培養液の採取量を誤り、
それが培養に入る直前で明らかになった、
ということがありました。

僕は一瞬、このまま黙って結果を出してしまおうか、
と心が動いたのですが、
先生は即座に誤った採取量を計算して補正し、
その量に他の実験のデータも合わせることで、
捏造もすることなく、
無用な再実験も行うことなく、
その急場を乗り切ったのでした。

この時に僕の感じたことは2つあります。

1つは研究者たるもの、
実験で得たデータこそ全てであって、
その1つ1つの画像や数値に対して、
最大の尊重を持って、
その厳密性に奉仕するべきだ、
ということです。

そして、もう1つ感じたことは、
僕自身の心の弱さで、
先生がその場にいなかったら、
確実に僕は数字を自分のミスを隠すためにいじってしまった、
つまり保身のために捏造をしてしまっただろう、
ということです。

人間にはタイプがあって、
こうした研究に対するモラルにも差があるのです。

先生は高いモラルを持ち、
僕はそうではありませんでした。

これは勿論訓練や努力や環境によって、
変更の可能なものではありますが、
こうした捏造をそれほど重要なことと感じないというのは、
それはもう、その人の素質による面が、
大きいのではないかと思います。

たとえば、
頭の中で理論を構築するようなタイプの人がいます。
そうした人にとっては、
実験はあくまで自分の理論を証明するだけの作業に過ぎません。

医学の研究の場合、
理論的にこうした現象があり得る筈だ、
というようなことでは論文にはなりませんから、
それを実証するための基礎実験が必要になります。

しかし、そうした研究者は往々にして、
実験の技術はそれほどではないことが多いので、
理論は完璧なのに、
実験結果は思うように出ない、
ということになると、
結果を自分の理論に合わせたい、
という誘惑が生じます。

一方で実験を繰り返して、
そのデータの解釈から、
コツコツと理論を積み上げて行くタイプの研究者は、
データこそが全てですから、
その扱いには厳密になり、
決してそのデータをいじろう、
というような誘惑には駆られません。
しかし、そうした研究者は、
データから飛躍した、画期的な理論を、
頭の中で組み上げるような作業には、
往々にして向いていないのです。

ここでちょっと論理の飛躍をお許し下さい。

極論を言えば、天才はしばしば捏造するのです。
自分の理論が時に実験結果の遥かに先を行ってしまい、
それを地道に確認するまで待つようなことが出来ないからです。

ただ、その捏造した結果が、
実際には真実であれば、
後から「良心的な」研究者が、
その追試を行なうことにより、
その結果が今度は真に証明されることになるのです。

この問題は従って、
手術の上手い先生が、
必ずしも他の医療技術や医療倫理に、
優れた医者であるとは限らない、
というような事項と、
似通った面があるように思います。

医学の基礎研究は、
斬新な発想や理論と、
それを証明する実験結果が、
表裏一体で成立するものですが、
それを兼ね備えた研究者は実は少なく、
実験のみや理論のみの業績が、
それだけでは評価されない、
というところに問題の一端があるように思うのです。

最後に1つの事例をお示しします。

ネットなどで取り上げられているものですが、
その真偽はまだ確実ではないことをお断りしておきます。
事実ではないと判明した場合には、
削除させて頂きます。

先日割烹着の女性若手研究者として、
一躍有名になった方がいます。

その方が2011年に第1著者として発表した論文がこちらです。
割烹着ねつ造論文.jpg
これは正常の組織の中にある幹細胞と呼ばれる細胞が、
従来言われているよりも、
万能性を持っているのではないか、
という仮説を検証したもので、
そこに万能化に結び付くストレスを加えることが、
最近注目された発見に結び付いています。

つまり、今回の発見の元になった研究の1つです。

そこで、その細胞が万能細胞であるかを検証するために、
多くのタンパク質の発現量を測定しています。
その結果の一部がこちらです。
割烹着の同じ画像.jpg
並んでいる横線は、
蛋白の発現量を示しています。
それぞれの行は別個の蛋白の結果ですから、
それぞれ別個のものの筈です。

ところが、
上から4番目のCriptoと書かれた行の結果を、
上下ひっくり返すと、
一番下にあるKlf4の結果に一致しています。
擦れているような部分も完璧に一致していますから、
これは画像を反転させて使用したことが、
ほぼ明らかです。

次にこちらをご覧下さい。
割烹着の同じ画像2.jpg
これは別個の実験結果を示したものです。
しかし、一番下のNat1の結果の画像は、
先刻のCriptoの画像の左2つと、
これも全く同一です。

今はこうした画像の結果は、
データをパソコンの画像ソフトに取り込んで、
そこから適宜選択して使用しているのだと思いますから、
同じ画像を誤った位置に使用してしまう、
と言うケアレスミスは当然あり得ることです。

しかし、この画像が意図的な印象が強いのは、
画像を上下反転させたり、
その半分だけを用いたり、
というように、分かり難くするための加工が施されていることで、
おそらくこの問題はうやむやになり、
画像を誤って使用したケアレスミスとして、
説明されるのだと思いますが、
多くの方はその結果には心の底では納得はされないと思います。

本来は同じ画像をそのままに使用した方が、
追及されたような時には言い訳はし易いのです。
ケアレスミスで画像の配置を間違えた、
と言えばそれで済むからです。
ただ、それだと同じ画像だとバレ易いので、
バレないようにと上下を反転させたりするのです。
姑息なことをして本質を見失うのは、
極めて人間的だと言えなくもありません。

僕の個人的な見解は、
この方は天才であると思うので、
結果が誤りでなければ、
失敗したデータを多少修正するのは許容範囲だ、
と言う判断をした可能性が高いのでは、
ということです。

そして、むしろ強調したいことは、
仮にそうであっても、
この方を指導される先生が、
データについての厳密な考えを持っている方であったら、
おそらくこの方も画像を加工したりは、
しなかったのではないか、ということです。
つまりは、こうした捏造をした研究者がいるとすれば、
その研究者を指導した方も、
高い確率でそうした行為をする方なのです。
(これはあくまで現時点での推測ですので、
その点はご理解の上お読み下さい)

捏造にも色々な性質のものがあり、
それを一括りに解釈することは誤りです。

ただ、研究者は矢張り実験のデータを、
全てに優先させて尊重することが本来で、
どんな天才であっても、
その点は揺るがせにするべきではないように思います。

要するに、
理論が実践に先行してしまうために、
しばしば捏造をするのが天才で、
それをわざわざ追試して確認したり、
時にはその捏造を指摘して公正さを保つのが凡人です。
「馬鹿」は融通の利かないのが長所なのです。
その意味で人間の積み上げた科学技術という作業には、
天才と凡人との双方が、
協力し合うことが必要なのです。

これは勿論そういうこともあるのでは、
という僕の個人的な考えです。

捏造をするのが全て天才である訳はなく、
たとえば僕が捏造の誘惑に駆られたのは、
僕が天才であるからでは勿論なく、
僕が凡人であることの証左です。
また自分が天才であることを証明しようとして、
捏造を繰り返すような自称天才の凡人も多いと思います。
つまりは、捏造は凡人でも天才でもするのですが、
その意味合いはそれぞれ違うのです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

藝術という物語をどう考えるか? [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は祝日で診療所は休診です。

今日は雑談です。

Sさんという、
耳のご不自由な20代でロックバンドを結成していた方が、
全くの独学でクラシックの作曲を始め、
ゲーム音楽を手始めに本格的な交響曲を作曲して、
各界の絶賛を浴び、
多くの方がその曲に感動を覚え、
現代のベートーベンともてはやされました。

テレビ局はスペシャル番組を作成し、
それによるとSさんはテレビのスピーカーに手を当てたり、
バイオリンの絃に触るだけでその音色を感じ取り、
全く音を聞くことが出来ないのにも関わらず、
純粋に頭の中だけで五線譜に音楽を組立て、
それを一種の秘儀のように、
1人だけの秘密の時間に譜面化するのだそうです。

こうしたことが本当にあるのであれば、
奇跡のような素晴らしい物語ですが、
その後発覚したことによれば、
Sさんの作品は殆どが現代音楽の作曲家の代作で、
聴力の低下についても、
少なくとも完全に聞こえないという状態では、
ない可能性が高いということのようです。

この話題は多くの有識者の方が、
その方なりのコメントを発表していますし、
暴露のきっかけとなった週刊文春の取材を行なった、
神山さんというジャーナリストの方は、
僕の大学の先輩で以前一緒に演劇の舞台に立ったこともあるのですが、
大変きっちりとした取材をされる方なので、
おそらくは本も出るのだと思いますし、
今はまだ情報が錯綜していますが、
周辺の取材なども緻密にされているのだと思います。

つまり、真相はかなりの部分まで、
今後明らかになる可能性が高いと思います。

ですから、僕が何かを言ったところで、
別にさしたる意味はないのですが、
非常に興味深い話なので、
僕なりの感想をまとめておきたいと思います。

まずこの問題の医療的な側面についてですが、
代理人の如何にもなお顔をされた弁護士の方が、
障害者手帳を持っているので難聴は間違いがない、
というお話をされていましたが、
難聴には心因性の難聴も結構あるのですから、
ある程度は器質的な障害がないかどうかを、
検査する方法はあるものの、
基本的には本人が聞こえないと強く一貫して主張をされれば、
手帳が交付されるケースは実際にはあるように思います。

ご本人の映像を見ると、
非常にスムースにお話をされていて、
完全に聴力を喪失して時間が経っている状態で、
あれだけ自信を持ってよどみなく話すということは、
困難ではないかと感じました。
人間は常に自分で発した声を自分で聴き、
それを再度インプットしながら声を出しているので、
自分の発した声が全く聞こえない状況では、
話は出来ても、
よどみなく会話する、ということは、
困難であるように思えるからです。

次にこの問題の藝術的な側面についてです。

Sさんが作曲したとされた交響曲を多くの専門家が絶賛され、
日本のクラシックの金字塔のように語られました。
一般の方の多くもこの曲に感動して涙を流し、
被ばく体験というテーマ性にも感銘を受けました。

しかし実際には、
その交響曲は現代音楽の作曲家で音楽大学の先生の手になるもので、
昔の交響曲のある種パロディ的なものとして創作され、
そこに大仰なテーマが、
プロデューサーたるSさんの手で付け加えられたものでした。

このことが発覚してから、
多くの方が「騙された」と感じ、
絶賛した専門家は口をつぐみ、
それまでSさんに関心のなかった方は、
こんな詐欺に引っ掛かった奴は馬鹿だと、
ここぞとばかりに発言しています。

しかし、この資本主義社会における藝術というのは、
こうしたものではないでしょうか?

感動というのは、要するに物語から生まれるものです。
純粋の音楽という音の配列のみで、
感動したり泣いたりすることが、
勿論ない訳ではありませんが、
それは概ねパーソナルなもので、
普遍性を持つものではありません。

藝術はそれ自体では感動を生まないのです。

感動というのはある種の集団催眠のようなもので、
今回の事例で言えば、
被ばく者としての苦悩と、耳が聞こえず、
常に耳鳴りなどの症状に苦しめられながら、
神の啓示のようなものを受けて、
音楽と格闘する、という物語を、
マーラーのパロディの音楽の中に、
皆が感じたからこそ生まれたものです。

僕は個人的にはこうした物語が大嫌いで、
ですからSさんのことには今回のことがあるまで、
全く興味はありませんでした。
集団で感動する、という感覚自体に興味がないからです。

ただ、現代の藝術というのはそうしたものであることは事実で、
内容よりもその提示する物語の方に、
より大きな「売り物」としての意味があるのです。

藝術を商品として扱うクリエーターや音楽家の多くが、
何となくSさんに擁護的になるのは、
そのせいではないかと思います。

マスメディアの方の追及も何となく及び腰になるのは、
自分達が常にしていることを、
Sさんが代わりにやっているだけだということに、
無自覚ではいられないからだと思います。

つまり、
お金を生んだのは、
被ばく者で聴力を失った主人公が、
耳鳴りなどの症状に苦悩しながら、
独学でクラシックの大作を完成させる、
という物語の方にあるのです。

そして、この資本主義の社会では、
全ての価値はお金で換算されるものなのですから、
この交響曲と言うものの価値は、
その多くがSさんの構築した物語の持つ感動性にあるのであって、
マーラーのパロディ交響曲にあるのではないのです。

問題は一点のみ、
皆が集団催眠に掛かって、
それが事実であると信じなければ成立しない物語が、
実際には虚構であったことにありました。

冷静に考えれば、
何の音楽的素養もなく、
ロック歌手を志望していた若者が、
独学で専門家も驚嘆するような交響曲を作曲し、
独力で完璧に譜面に残す、
と言うこと自体が、
まともに信じられるような物語ではありません。

しかし、それを簡単に信じてしまうのが、
常に感動したいと願う、
人間の業のようなものなのかも知れません。

人間の本質とは何でしょうか?

昔のSFに、異星でエイリアンに捕えられた地球人が、
自分達が知的生命体であることを、
証明しようと苦労する、と言う物語がありました。

言葉は勿論通じませんから、
何かの行為で自分達が知的な存在であることを表現しないとならないのです。

その物語のオチは、
捕えられた地球人が別の小生物を檻に入れて飼い始めると、
それでエイリアンに解放される、というものでした。

要するに、他の動物をペットにするのが、
知的生命体の特徴だ、と言うのです。

その考え方でいくと、
人間の特徴は他の人間を騙すことにある、
というように僕は思います。

嘘を吐き騙すことこそ人間の本性で、
それは悪事であると同時に、
社会を円滑に廻すための知恵でもあり、
人間が生きるために必要な、
物語を形成する源泉でもあるのです。

人間は物語という虚構を信じなければ、
生きている意味という虚構を信じることも出来ず、
生きることが困難となる生き物だからです。

Sさんの行為が何となく胸騒ぎのようなものを、
僕達の心に湧き起こすのは、
人間の本質がそうした騙しにあり、
それを表面的には否定しながらも、
詐欺師の物語によってしか、
心底感動することが出来ない僕達の限界を、
思い知らされるからかも知れません。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

看護師さんとお茶の話 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日で診療所は休診です。
体調が悪いので駒沢公園には今日は行かず、
何となくダラダラして今PCに向かっています。

今日は雑談です。

ある企業の産業医をしていますが、
最初は人事の社員の方が担当をしてくれていました。

その時には、
面談や職場巡視で会社を訪れると、
お茶かコーヒーを出してくれました。

それが会社に健康管理室が出来、
看護師さんが所属して担当となると、
パタリとお茶やコーヒーが出て来ることはなくなりました。

ご機嫌を取り結ぶ、ということでもないのですが、
時々もらいもののお菓子などを、
看護師さんに持って行くのですが、
ちょっと意外そうに手に取って、
それでお終いです。

こうした時くらい、
そのお菓子を1つ、お茶と一緒に出してくれてもいいのにな、
とチラと思いますが、
そうしたことは絶対にありません。

医者にお茶を出すような行為は、
自分が医者の子分であるような気持ちにさせられて、
耐えられないのかしら、
と思ったりもします。

勿論お茶など出しても出さなくてもどちらでも良いのです。
ただ、こうしたこと1つにも、
医者と看護師という関係の微妙さと、
ある種の屈折した感じは、
見て取ることが出来るように思います。

今思うと微笑ましい感じがするのですが、
まだ僕が大学病院にいた20年くらい前に、
病棟にアメリカで最新の看護を学んで来た、
という看護婦さんがやって来て、
それまでの看護婦の仕事を見直して、
医者の下働きのような作業は、
「いたしません」というような宣言をしたことがありました。
その代わりに看護研究を朝から晩までやっていて、
医局は大騒ぎになりました。

ただ、元々大学病院の病棟では、
殆どの雑務は研修医や下っ端の医者の仕事ですから、
あまり看護婦さんの業務はありません。
採血も点滴も全部医者の仕事です。
それでも、点滴の準備をしたりする仕事があって、
それも「先生やって下さい」という感じになったので、
医局からも不満が出たのです。

僕は特に看護婦さんの考え方が変化することは、
おかしなこととは感じませんでしたが、
昔からずっとその病棟にいて、
医局の医者のやり方の全てを心得ていて、
歴代の教授の信頼も厚かった看護婦さんが、
医者に従順なのがけしからんとか、
准看護婦なのが気にいらんとか、
新しい教育も知識も身につけていないのがけしからんとか、
色々と理由があったのでしょうが、
主任格であったのが降格のような格好になり、
露骨な苛めを受けて辞めてしまったことに、
非常に腹が立ちました。

こうした改革で看護師さんの社会的地位が上がり、
看護師さんの専門的な技量が評価され、
より患者さんのためにもなる高度の医療が実現するなら、
それに越したことはありません。

しかし、どうも医者と看護師との関係がギスギスしただけで、
それ以上の変化はなかったように思いました。

そんな最中に、離婚したばかりの医局の先輩が、
病棟の看護婦さんと電撃結婚したのでビックリしました。
とても笑顔の素敵な看護婦さんで、
朝その笑顔を見せられると、
別に付き合っている訳ではないのですが、
「今日一日頑張ろう」
という気分にさせられたのです。
しかし、いつも「いたしません」の看護婦さんが、
ある時からその先輩の先生のためだと、
甲斐甲斐しく点滴の準備などするようになったのです。

こんな不公平があって良いのでしょうか?

意味もなく「畜生」と思いました。

勿論怒る方が馬鹿で、
世の中というのはそうしたものなのです。

医療は医者を頂点とするピラミッド構造で、
それなりに機能していたのですが、
最近は専門職の数も増えましたし、
介護の占める役割も大きくなりましたから、
そうした構造は成立し難くなり、
あちこちで軋轢が生じているのが昨今だと思います。

医者と他の職種とのトラブルも勿論あるのですが、
それ以上にこじれ易いのが、
医者以外の専門職種同士の関係のようです。

老人ホームでは看護師さんとヘルパーさんとの関係は、
あまり良くないことが多く、
お互いに相手がまっとうな仕事をしていない、
と感じていることが多く、
待遇面においても多くの不満を抱えていることがしばしばあります。

施設の経営者は医師や看護師ではないことが殆どなので、
概ね専門職としての看護師の仕事への理解が乏しく、
採用の際の判断も甘いことが多いので、
仕事の出来ない看護師を採用してしまって、
こんな仕事ならヘルパーでも充分、
と考えて給料を減らし、
待遇が悪いので更に良い看護師が集まらない、
という悪循環に陥ります。

看護師さんは医者を相手に待遇改善や自分達の職種の有用性を、
戦って来たという側面が大きいので、
他の介護職や医療職との関係における、
自分達の専門性や有用性の主張には、
慣れていないという側面もあるのではないかと思います。

医者は所詮馬鹿な世間知らずのお人よしですから、
看護師さんにワーワー言われればシュンとしてそれでお終いですが、
他の職種の方にその勢いで交渉しても、
思うような結果にならないばかりか、
職種間の軋轢が生じるだけの結果になるのかも知れません。

医者を頂点にした秩序など、
過去の遺物で論じること自体無意味ですが、
医療や介護はある対象者に、
統合的に提供される性質のものなので、
各職種間の連携は色々な意味で重要なことです。

ただ、その時に人間同士の関係以上に、
個々の職種の待遇面や専門職としての評価が、
確立されていることが重要だと思うのですが、
その辺りの不確定性が、
職種間の軋轢などの、
1つの大きな要因となっているように思われるのです。

行政はそうした混乱を知っていながら、
これを機に全ての専門職の待遇を下げ、
社会保障の人件費を削減しようと企んでいるので、
そうしたもめごとをむしろ煽っているのだと思いますから、
問題の解決はなかなか難しいことなのではないかと思います。

念のため補足しますが、
今日の文章に少しでも看護師さんへの悪意が感じられたら、
それは全くの誤解です。
看護師さん抜きで僕の仕事は何も廻りませんし、
本当に毎日感謝しています。

いつも本当にありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

京都駅のホームで4時間待った話 [身辺雑記]

こんばんは。

六号通り診療所の石原です。

今日は奈良から戻って来たのですが、
京都駅で4時間近く待ちました。

年末から風邪を引いてしまったらしく、
身体がだるくて、ただでさえ調子が悪かったのですが、
すっかり止めを刺された、という感じです。

朝有楽町駅のそばで火事があり、
その影響で東海道新幹線が止まっている、
という情報は近鉄奈良駅であったのですが、
まあ朝の6時の話ですし、
取り敢えず京都まで行ってみようと思いました。

それが丁度お昼の頃です。
0時53分発の東京行きに乗るつもりでした。

京都駅に着くと、
物凄い人で改札口まで行くこともままなりません。
アナウンスらしいアナウンスもなく、
改札を入ろうとする人と出ようとする人が、
そのままぶつかり合って止まっている感じです。

どうにか押し合いへしあいホームに出ると、
0時53分発ののぞみが、
掲示板には一応クレジットはされています。

ただ、広いホームに1人も駅員さんの姿はなく、
ホームは人であふれているのですが、
10分くらいが経ってもホームに入って来る新幹線はありません。

そのうちに、
0時53分発ののぞみの掲示が2番目に入れ替わり、
13時7分くらいののぞみが一番上にクレジットされてしまいます。

録音されたアナウンスが、
「13時7分ののぞみは遅れています」
という内容を繰り返しますが、
0時53分発は何処に行ったのか、
全く言及がありません。

すると、
反対側のホームに来る列車のアナウンスが唐突に流れ、
僕の待っている側ではなく、
反対側のホームに、
ようやくひかりが到着します。

これが物凄い人です。
ドアの周りの通路にも人が溢れているのですが、
一旦外に出ようなどという余裕はなく、
1つのドアからせいぜい数人しか入ることが出来ません。
その列車の指定券を持っている人も、
中に入ることが出来ずに弾き出されてしまう、
という酷い有様です。

そんな感じで満員の列車が次々と到着はしますが、
0時53分はそのたびにどんどん掲示が下にずれ、
追い抜かされてしまって駅には着きません。

ようやく駅員さんに状況を聞くことが出来ましたが、
到着の順序は都合でめまぐるしく変わっているので、
いつ着くかは分かりません、
という何の解決にもならないような返事です。

結局その後もどんどん僕の乗る筈ののぞみは、
後続の列車に抜かされて、
到着したのは予定より3時間50分くらい後のことでした。

身体は凍りつき、足は棒です。
本当はもっと早い新幹線に乗ってしまっても良かったですし、
どうせ何時間も待つことになるのなら、
何処かで時間をつぶしても良かったのですが、
如何にもすぐに0時53分発が来そうな雰囲気が最初にあったので、
違う列車に乗るよりも…
と思ってそのまま待ってしまい、
1時間が過ぎると今度は意地になってしまい、
4時間近くホームで立ち続けることになってしまったのです。

そんな訳で今日はもう寝ます。

石原がお送りしました。
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