維新派「アマハラ」(奈良平城宮跡にて最終公演) [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で、
午前午後とも石原が外来を担当します。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。

関西野外劇の雄維新派が、
10月24日まで奈良の平城宮跡で、
野外公演を行いました。
今年主宰の松本雄吉さんが逝去されたため、
これが最後の維新派の公演となるようです。
内容は2010年の「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」
を再構成したもので、
その構想自体は松本さん自身によるもののようですが、
上演された作品はかなり初演時とは印象の違うものになっていました。
維新派最後の公演としては、
この公演に掛けるスタッフ、キャストの、
個々の思いが充分に感じられるもので、
熱の籠った良い舞台であったと思います。
今後どうなるかは分かりませんが、
仮に今回の公演が本当に維新派の最後であったとしても、
充分に納得出来る上演であったと思います。
ただ、松本さんがご存命であれば、
舞台の感触のようなものは、
おそらくもっと違っていただろうな、
という感じは受けました。
今回の作品に新しい驚きのようなものは皆無で、
取り敢えずあるものは全部出そう、という感じで、
衣装や小道具など統一感に欠ける部分がありました。
個人が目立つことは極力避けるある種の冷徹さが、
維新派の芝居のトーンで、
クローズアップにならず常に俯瞰で見る、
というようなところがあったと思うのですが、
今回の芝居では個の主張が強く、
「頑張って芝居してるぜ」というような、
以前の維新派にはあまり見られなかったムードが、
全体に漂っているのを感じました。
初演版はアジアの歴史を大俯瞰する、
というような感触があったと思うのですが、
今回は明確に太平洋戦争の始まりにより、
多くの日本人の南方への夢が潰えた、
という視点が強調されていて、
「反戦もの」としてのスタンスが強化されていました。
維新派の芝居は「キートン」以降は、
それまでのような大掛かりなセットや具象的なセットが、
次第に少なくなり、
抽象的かつシンプルになっていったのですが、
今回の舞台は部分的に結構大掛かりなセットが登場しながらも、
以前であればセットの見せ場になった、
南方が開発され町が出来る場面を、
語りだけで処理しています。
そこに統一感がないので、
語りの部分と群舞による動きの部分、
そして大掛かりなセットの登場するスペクタクルの部分が、
あまり綺麗に融合されずに提示されていた、
という感じがあるのです。
ラスト近くに女優さんのみ8、9人が舞台中央に並ぶのですが、
バランスを取り、それぞれにポーズを取って、
正面に小さく固まる姿は、
商業演劇の構図そのもので、
松本さんご存命中の舞台には、
絶対になかったような構図であったと思いました。
随所にそうしたほころびのようなものがあって、
それを観ていると、
「ああ、松本さんは亡くなって、維新派は終わったのだな」
ということを強く感じました。
維新派の作品は、
最近はかなり寺山修司作品に接近した感じがあったのですが、
寺山修司の死の直後の、
天井桟敷の舞台や旗揚げした万有引力の舞台でも、
キャストやスタッフはほぼ同一でありながら、
矢張り寺山修司存命中とはもう既に作品は変質していて、
もう完全に別個のものになっていました。
松本さんの最後の仕事は、
完成したものとしては、
寺山修司作の「レミング」の再演でしたから、
この作品は寺山修司の遺作でもありますし、
演劇の因縁のようなものを強く感じました。
それでも奈良まで足を運べて幸せでした。
オープニングは本物の見事な夕景が、
舞台の背後に広がっていたのは、
奇跡のように感じましたし、
ラストの盛り上がりまで、
唯一無二の世界を、
ノスタルジックに味わうことが出来ました。
これでもう見納めかと思うと、
とても寂しい思いもあるのですが、
最後がこの作品で良かったという思いは、
これも強く感じたのです。
お疲れ様でした。
そして、沢山の良い舞台をありがとうございました。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
下記書籍発売中です。
よろしくお願いします。

北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で、
午前午後とも石原が外来を担当します。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。

関西野外劇の雄維新派が、
10月24日まで奈良の平城宮跡で、
野外公演を行いました。
今年主宰の松本雄吉さんが逝去されたため、
これが最後の維新派の公演となるようです。
内容は2010年の「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」
を再構成したもので、
その構想自体は松本さん自身によるもののようですが、
上演された作品はかなり初演時とは印象の違うものになっていました。
維新派最後の公演としては、
この公演に掛けるスタッフ、キャストの、
個々の思いが充分に感じられるもので、
熱の籠った良い舞台であったと思います。
今後どうなるかは分かりませんが、
仮に今回の公演が本当に維新派の最後であったとしても、
充分に納得出来る上演であったと思います。
ただ、松本さんがご存命であれば、
舞台の感触のようなものは、
おそらくもっと違っていただろうな、
という感じは受けました。
今回の作品に新しい驚きのようなものは皆無で、
取り敢えずあるものは全部出そう、という感じで、
衣装や小道具など統一感に欠ける部分がありました。
個人が目立つことは極力避けるある種の冷徹さが、
維新派の芝居のトーンで、
クローズアップにならず常に俯瞰で見る、
というようなところがあったと思うのですが、
今回の芝居では個の主張が強く、
「頑張って芝居してるぜ」というような、
以前の維新派にはあまり見られなかったムードが、
全体に漂っているのを感じました。
初演版はアジアの歴史を大俯瞰する、
というような感触があったと思うのですが、
今回は明確に太平洋戦争の始まりにより、
多くの日本人の南方への夢が潰えた、
という視点が強調されていて、
「反戦もの」としてのスタンスが強化されていました。
維新派の芝居は「キートン」以降は、
それまでのような大掛かりなセットや具象的なセットが、
次第に少なくなり、
抽象的かつシンプルになっていったのですが、
今回の舞台は部分的に結構大掛かりなセットが登場しながらも、
以前であればセットの見せ場になった、
南方が開発され町が出来る場面を、
語りだけで処理しています。
そこに統一感がないので、
語りの部分と群舞による動きの部分、
そして大掛かりなセットの登場するスペクタクルの部分が、
あまり綺麗に融合されずに提示されていた、
という感じがあるのです。
ラスト近くに女優さんのみ8、9人が舞台中央に並ぶのですが、
バランスを取り、それぞれにポーズを取って、
正面に小さく固まる姿は、
商業演劇の構図そのもので、
松本さんご存命中の舞台には、
絶対になかったような構図であったと思いました。
随所にそうしたほころびのようなものがあって、
それを観ていると、
「ああ、松本さんは亡くなって、維新派は終わったのだな」
ということを強く感じました。
維新派の作品は、
最近はかなり寺山修司作品に接近した感じがあったのですが、
寺山修司の死の直後の、
天井桟敷の舞台や旗揚げした万有引力の舞台でも、
キャストやスタッフはほぼ同一でありながら、
矢張り寺山修司存命中とはもう既に作品は変質していて、
もう完全に別個のものになっていました。
松本さんの最後の仕事は、
完成したものとしては、
寺山修司作の「レミング」の再演でしたから、
この作品は寺山修司の遺作でもありますし、
演劇の因縁のようなものを強く感じました。
それでも奈良まで足を運べて幸せでした。
オープニングは本物の見事な夕景が、
舞台の背後に広がっていたのは、
奇跡のように感じましたし、
ラストの盛り上がりまで、
唯一無二の世界を、
ノスタルジックに味わうことが出来ました。
これでもう見納めかと思うと、
とても寂しい思いもあるのですが、
最後がこの作品で良かったという思いは、
これも強く感じたのです。
お疲れ様でした。
そして、沢山の良い舞台をありがとうございました。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
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