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竹内銃一郎「あたま山心中~散ル、散ル、満チル~」(2016年寺十吾演出版) [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は土曜日で午前午後とも石原が外来を担当する予定です。

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
あたま山心中.jpg
竹内銃一郎さんが1989年に発表した戯曲を、
平岩紙さんと近藤公園さんが2人芝居として上演した舞台が、
10月19日まで下北沢の駅前劇場で上演されました。

平岩紙さんは大人計画での初登場時から、
偏愛している役者さんで、
ともかく抜群に上手いですし、
余人に真似の出来ない、
ちょっと人間離れのしたような、
足がしっかりと地には付いていないような、
独特の雰囲気を持っています。

最近は映像での役も大きくなりましたが、
どちらかと言えば映像で普通のおばさんを演じながら、
舞台での「狂気」を失ってはいないのがさすがです。

近藤公園さんは…
まあ…
ごめんなさい、普通です。

演出は寺十吾(じつなしさとる)さんで、
寺十さんの小劇場の演出は、
現在では最高と言って良い素晴らしいものなので、
今回の2人芝居は非常に期待をして出かけましたが、
作品は非常に高品質のもので、
期待は裏切られることはありませんでした。

以下ネタバレを含む感想です。

この作品は1989年に竹内銃一郎さんが、
吉田日出子さんを主役にして書き下ろした芝居のようです。

竹内銃一郎さんは、
トリッキーでミステリーに近いようなタイプの前衛劇を、
木場克己さんや森川隆一さんといった、
非常に魅力的な役者さんで上演し、
特に1980年代前半の、
「あの大鴉さえも」や「戸惑いの午後の惨事」は、
ちょっと他に類例のない世界を展開させた傑作で、
その観劇後の奇妙な高揚感のようなものは、
今でもありありと思い起こすことが出来ます。

ベケットなどの前衛劇を下敷きにして、
それをつかこうへい的な方法論と演技術で、
巧みに換骨奪胎して娯楽化したもので、
作品によってはつかこうへいに似すぎていたり、
別役実に似すぎているようなものもあるのですが、
「あの大鴉さえも」などは、
ベケットの「ゴドーを待ちながら」を、
大きな硝子を持った3人の男が、
開かない門の前で家の女主人の返答を待ちわびる、
という話に変え、
3人にとっての女主人がそれぞれ別の女性、
という趣向を巧みに取り入れて、
クライマックスではもんた&ブラースの名曲が流れる中、
それぞれ別の女性に3人が必至で呼びかける、
という奇妙な情感と感動を呼ぶ場面に収束します。

硝子は元々存在しなかったのかも知れないのですが、
それが間違いなく割れてなくなってしまった後も、
3人は共同幻想としての見えない硝子を信じて、
それをパントマイムで運び続けるのです。

この作品も別個の演出で上演されていますが、
僕はかつての思い出を大切にしたいので、
そちらは見るつもりはありません。

さて、1980年代の前半の竹内銃一郎作品は、
そうした訳で非常に素晴らしかったのですが、
要になった役者さんが抜けた後で、
かなり雰囲気が変わりました。
それまでの作品はある種の「オチ」というか、
クライマックスの前に世界観が反転するような瞬間があって、
それから情緒的なクライマックスに入る、
という感じがあったのですが、
「オチ」は特にない、散文詩的な作品に変化して、
正直物足りない感じがありました。

それで何となく観る回数が減りましたし、
竹内さん自体も、劇団を主体の活動から、
プロデュース的な活動に、
移行する感じがありました。

この作品の初演は1989年で、
僕は正直上演されたこと自体全然記憶にありませんし、
観てもいません。

内容的にはただ、
かなり過去の前衛劇のスタイルに近いものです。
2人芝居で、ある役を演じながら会話をしているのですが、
その本人が透けて見える感じが次第にしてきて、
2人が変則的な心中をすることに至る、
という筋立ては、
別役実さんのかたつむりの会などで上演した、
2人芝居に近い構成であり味わいです。

1人の狂った女性がいて、
そこに自分が兄のチルチルだと言って、
「青い鳥」の世界観で入って来る男性がいるのですが、
青い鳥を見つけに出掛ける筈の2人は、
準備だけしていてなかなか出掛ける様子はなく、
自分の頭に桜の木が生えた、
「あたま山」の話になって来ます。
落語の最後は頭に空いた池に飛び込んで自死する、
というところから、
自死のイメージが濃厚に漂い始め、
父親が愛人と首吊りをして、
そのことを認めることが出来ずに狂った母親の、
妄想に息子が付き合っていたことが次第に見えて来ます。

ラストは今度は精神病院に入った男が、
看護師の女を相手に膨らませた妄想であった、
というひねりで終わりになります。

昔は山のようにあったのですが、
今はあまりない「ザ・アングラ」という筋立てを、
平岩紙さんと近藤公園さんという、
今まさに脂の乗った演技派の2人ががっぷり四つで演じます。

平岩紙さんは本当に素晴らしくて、
世が世なら白石加代子になっていたのではないか、
という思いを強く感じました。
これまでの割と特異なとぼけた狂気のような演技は封印して、
能面のような表情の抑えた芝居に、
時々強烈で激烈な感情の高ぶりを爆発させます。
この呼吸こそアングラ演技そのものです。

作品的にも引用の多い世界は、
早稲田小劇場の「劇的なるものをめぐって」を思い起こさせます。

彼女は表情を殆ど変化させることなく、
能面のような美しい虚無感と不特定性を保ちながら、
少女にもなり大人の女性にもなり、
母親にも恋をする女にもおばあさんにも変貌します。
その変貌の鮮やかさは能の舞台を思わせるようなもので、
ご本人はそうは思われていないかも知れませんが、
まさしく天性のアングラ芝居であり、
表情を完全に殺せるところは、
かつての全盛期はともかくとしても、
今の白石加代子さんの芝居を超えていると思います。

竹内銃一郎さんの芝居は、
ご本人以外の演出では、
大抵ポイントを外して失敗するのですが、
今回の寺十吾さんの芝居は、
アングラの香気を今に伝える素晴らしいもので、
非常な感銘を受けました。

セットは人工的な木材を寄木のようにして、
巨大な桜の木を舞台に出現させ、
舞台の平板を不安定にそこここに配置することで、
それが現実ではなく「演技」であることを示しています。
ハラハラと桜は散り、
ラストのひねりの時には、
人工的なライトが桜の木のそこここに付きます。

作品はところどころに暗転がさしはさまれ、
そこに複数の音が闇の中で流れます。
その音効の感じもアングラの香気が感じられます。
欲を言えば、音楽があまりに抑制的で、
これはこれで悪くないのですが、
クライマックスではドカンと何かが流れた方が、
アングラ的でもあり、
竹内さんの芝居っぽくもあったのではないかと思います。
ちょっとお上品に過ぎた感じはありました。

いずれにしても、
かつての1つの典型的なアングラ芝居が、
今のレベルの高いキャストとスタッフで、
鮮やかに甦ったという感じの舞台で、
蜷川幸雄さん亡き後、
アングラの演出を精度高く出来るのは、
これはもう寺十さんしかいないな、
というのが実感です。

堪能しました。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

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