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歌舞伎座秀山祭九月大歌舞伎(2016年夜の部) [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は土曜日で、
午前午後とも石原が外来を担当する予定です

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
9月大歌舞伎.jpg
今月の歌舞伎座の夜の部に足を運びました。

眼目は最初の「吉野川」で、
これは近松半二の浄瑠璃「妹脊山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」の、
俗に山の段と呼ばれる前半のクライマックスを、
独立して上演するものです。

原作の浄瑠璃は近松半二が、
その演劇技巧の限りを尽くして書き上げた、
人形浄瑠璃史上に残る大傑作で、
その歌舞伎版では、
前半の「吉野川」と、
後半の「三笠山御殿」が特に名場面として有名です。

「吉野川」も「御殿」も、
僕は大好きで、
この2つの場面を観れば、
そこにほぼ現行上演されている江戸歌舞伎の、
魅力の殆どは内包されていると思います。

「吉野川」は舞台中央に巨大な吉野川を配して、
上手側の「脊山」と、
下手側の「妹山」をシンメトリックに配置し、
両花道の掛け合いで、
客席全体を吉野川に見立てる、
という構想が雄大です。
おそらく歌舞伎で最も効果的に機能したセットの1つで、
人形浄瑠璃でも勿論面白いのですが、
より巨大なので、
自然と人間の対比がより明確に表現されます。

そこで繰り広げられるドラマは、
互いに敵対する河の両側の名家が、
互いの主人の娘と息子が恋仲になり、
そこで権力者の争いに息子が巻き込まれたため、
娘は母親に首を切り落とされ、
息子は切腹を父親に介錯される、
という悲劇です。

時は皐月のひな祭りで、
雛人形そのものの赤姫仕立ての娘の首が落ち、
それが河を渡って、
切腹して断末魔の恋人の前に運ばれ、
「首だけの嫁入り」が成立する、
という、
残酷の極みでありながら、
見事なまでに美しいという、
歌舞伎の1つの極北の世界が出現します。

よく「ロミオとジュリエット」と対比されますが、
向こうが青春の晴れやかさを舞台狭しと語るのに対して、
こちらは美しい自然の美の中に、
2人の若者は閉じ込められ、
殆ど身動きの出来ない中でドラマが展開する、
という点が如何にも日本的です。

僕はこの作品は平成7年4月の歌舞伎座で、
半通し上演で観ていて、
その後平成8年の国立劇場の通し上演でもう一度観ています。

男と女の老け役の対決が要の芝居で、
平成7年版では吉右衛門と雀右衛門(先代)、
平成8年版では幸四郎と鴈治郎(現藤十郎)が、
演じていました。
鴈治郎は珍しい上方の型で、
娘の首に死化粧をほどこすという件があります。

今回は平成7年版と同じ吉右衛門と、
玉三郎の舞台で、
若い2人も菊之助と染五郎ですから、
役者は揃っています。

そして、期待通りの充実した舞台が展開され、
歌舞伎の真髄に触れた心地がしたのです。

吉右衛門はおそらく、
義太夫狂言の本物の台詞廻しを体現した、
最後の歌舞伎役者で、
彼が一線を退いた時、
本物の歌舞伎の台詞術は、
姿を消してしまうような気がします。

下の世代はもっと明晰な台詞廻し、
楷書で語ることを旨としているからです。
観客の多くもおそらく、
ある程度聞けば台詞の分かることを望んでいると思うので、
この傾向はもう抗いようはないような気がします。

一方の玉三郎は、
彼独自の美意識と見識で、
歌舞伎芝居を自分の芝居に作り変える、
という藝質の役者です。
肉体の若さを表現出来なくなってから、
正直僕は玉三郎の芝居を、
観る元気があまりなくなっていたのですが、
今回の芝居は、
風格のある大年増を、
彼なりの方法論で、
非常に雰囲気のある役柄に昇華させていて、
昔の歌舞伎芝居における本役とは、
色々な意味で異なる芝居なのですが、
とても説得力があって感心しました。
今の女形は矢張り、
彼でもっている、
というようなところがあると思います。

これは予備知識がそれなりにないと、
何が何だか分からない芝居なので、
一定の予習はして頂きたいのですが、
歌舞伎の真髄と言える舞台で、
是非にとお薦めしたいと思います。

絢爛かつ重厚です。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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