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認知症を管理するということ [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は胃カメラの日なので、
カルテの整理をして、
それから今PCに向かっています。

年内の外来診療は、
本日で終了です。

それでは今日の話題です。

認知症の治療薬は開発が進んではいますが、
僕は正直あまり実効性のある方向に、
研究や開発が進んでいるとは思えません。

日本の現状を見れば、
現行はアリセプトの1人勝ちで、
海外では他にも数種類の薬剤が使用され、
本来ならもっと早期に承認されても良い筈なのに、
それが成されない状況が続いているのは、
行政や業界を含めたある種の意図が、
裏に働いているとしか思えません。

認知症の講習会に行けば、
アリセプトを出すことで、
患者さんの進行を遅らせる効果があり、
これだけの医療費が削減出来ますよ、
というようなグラフを必ず見せられ、
「アリセプト使用講習会」のような様相を呈しています。

つまり、認知症という言葉に、
アリセプトを対応させる、という、
一種の洗脳教育が行なわれている訳で、
それが医者にもコメディカルにも、
介護職の方にも同様に行なわれているので、
アリセプトさえ飲んでいればそれが正義で、
それを使用しないことは、
それだけで悪のような思考停止が、
医療や介護の現場のそこかしこで、
起きているような気がします。

ここにはジェネリックの思考停止と、
同質のものがあるように僕は思います。

1例をご紹介すると、
ある80代の1人暮らしの女性は、
身の回りのことに特に不自由は感じていなかったのですが、
近所の方から、支援センターという所に連絡すると、
ヘルパーさんが来てくれて、
身の回りのことをやってくれるから便利よ、
と言われたので、
お手伝いさんを雇うような気分で、
支援センターに相談をしました。
すると、相談員が訪問し、
その女性に簡単な質問をしました。
物忘れがありませんか、と訊かれたので、
最近は忘れっぽくて困るわ、
と女性が口にすると、
それは認知症の疑いがあるので、
精神科の専門クリニックを受診しなさい、
とすぐさま話が進み、
その女性の家族が、
わざわざ地方から呼び出されます。

認知症の診療をその中心としているクリニックを、
その女性が家族と一緒に受診すると、
診察は簡単な質問だけで数分で終わり、
それから脳のMRIをすぐに撮って、
それだけの情報で「アルツハイマー型の認知症の初期ですね」
と診断が家族に告げられます。

アリセプトが処方され、
必ず家族が処方を取りに来るように指示されます。

クリニックが介護保険の診断書を書き、
女性本人には明確な説明はないままに、
認知症の治療と管理とが、
本人の意思とは無関係に進められます。

ご家族は1ヶ月毎に地方から、
処方箋を代わりに取りに来るためだけに呼び出されます。
本人の診察はなく、アリセプトだけが処方されます。

ヘルパーさんの主な仕事は、
確実にアリセプトを飲ませることで、
カレンダーを貼り、そこにポケットを付けて、
訪問する度毎にその服薬状況を確認します。

女性の最初の希望は、
掃除や買い物を手伝って欲しい、
ということだったのですが、
それは勿論ヘルパーさんにとっては二の次の仕事で、
女性はむしろ常に監視されているような、
居心地の悪さを感じるだけです。

全てが善意で動いていることは分かります。

しかし、これが多くの人がかなりの確率で直面する、
認知症の進行、と言う事態に対する、
あるべき治療の姿なのでしょうか?

アリセプトが悪い薬とは思いませんし、
僕自身も処方はしています。
一定の効果のある事例が、
少なからずあることも事実で、
時には著効例も存在します。

しかし、初期の認知症で、物忘れはあっても、
日常生活が可能な患者さんに対して、
何かあったら大変だし、
このままだと病状が進む可能性が高い、
というだけの理由で、
本人の希望はまるでないのに、
アリセプトを処方し、
家族や他人の監視の目を強めることが、
果たしてあるべき治療の姿でしょうか?

認知症が治る病気であるのなら、
一時的に患者さんの自由を奪い、
治療を効果的に進めることも、
選択肢の1つではあるでしょう。

しかし、アルツハイマー型の認知症を、
現時点で完治させる方法はなく、
日本で現時点で使用出来る薬は、
その進行をある程度遅らせる作用のある薬だけです。

その薬を定期的に飲ませることが、
その患者さんの管理の目標になり、
そのために税金が使われ、
患者さん自身の自由は制限され、
ご家族の労力がそのために割かれることが、
果たしてまっとうなあり方でしょうか?

そしてその労力は、
患者さんの生涯続くのです。

僕の考えはこうです。

アルツハイマーの初期症状は、
短期記憶が損なわれることです。

その時点で本当に重要なことは、
失われた短期記憶の障害を、
他の何かで補完することです。

足が不自由になれば、
その原因を調べ、
それが治療可能なものであれば治療し、
治療が困難であれば杖を使います。
杖でも歩行が困難になれば車椅子を使います。

もし、杖も車椅子もなければ、
その患者さんは寝ているしかなく、
寝たきりと宣告されることになってしまいます。

僕が言いたいことは、
アリセプトを飲んでもらうことも、
それはそれで意味のあることかも知れないけれど、
もっと大事なことは、
杖や車椅子のように、
患者さんの能力の欠落した部分を、
補うような方法が、
あって然るべきなのではないだろうか、
ということです。

つまり、使用が簡単で、
携帯して記憶の能力の不足を、
補えるようなツールです。

視力が落ちても、
記憶力が落ちた時ほど動揺しないのは、
眼鏡やコンタクトの存在が、
既知のものとしてあるからです。

そうしたツールがあれば、
記憶の低下をそれほど不安に思うことがなくなります。

すると、ある程度の年齢になれば、
そうした道具の助けを借りることは、
当然の風景になります。

認知症の進行は、
主に情動の不安定さが影響しているのです。

つまり、記憶の欠落が不安や怖れなどの情動を刺激し、
それが認知症の問題行動となって現われるのです。

問題は情動を不安定にしないことで、
そうであるなら認知症は、
ただの記憶能力の低下で済み、
その進行は、
少なくとも情動が不安定な方よりは、
圧倒的にその進行を遅らせることが可能になると思うのです。

イヴァン・イリイチやミシェル・フーコーの例を引くまでもなく、
病気を管理しよう、という発想は、
その病気が治すことの困難な性質のものである場合には、
人間性を阻害する要因に成り得るのです。

そのことに僕達は、
あまりにも鈍感になっているのではないでしょうか?

「認知症」というこの呪術的な言葉を忘れて、
人間がある年齢に達すると、
記憶力が低下し、
その進行に伴って、
独力での生活が困難になることと、
物事の本質に戻って考えてみましょう。

勿論不老不死の秘法のようなものが開発されて、
認知症自体が治るのなら、
その方法を最優先することが、
理に適った方向性です。

しかし、現実には進行を少し遅らせる、
という薬があるだけです。

とすれば、その薬を飲ませることが最優先になる、
という現在の方向性は、
何か間違っているのではないでしょうか?

問題は記憶力が障害されても、
不安なくその後の社会生活を送れるような、
そうした社会の整備にこそある筈です。
認知症の問題が深刻になっているのは、
そうした受け皿であった家族や地域社会が、
崩壊しつつあることと、
機を一にしているのです。

この社会は短期記憶が障害されると、
生きるのが極めて困難なシステムになっています。
そうした患者さんを診るための場所である筈の病院も、
「次は3番窓口で薬をもらって下さい」
のような短期記憶の保持が必須の段取りが、
複雑に構成された世界です。
従って認知症の患者さんは、
病院に来る度にその迷宮で迷い、
そのために不安を更に煽られて、
病状が進行するのです。

つまり、この社会は、
ちょっと記憶力が低下しただけで、
そうした人間を差別し嘲笑う社会なのです。
それが認知症を進行させる大きな社会的要因であることを、
もっと深刻に考えるべきではないでしょうか?

従って、医療は認知症への対応に関して、
そのほんの一部を成しているに過ぎないと僕は思います。
しかし、それが何よりも優先され、
それさえあればOK、
というような思考停止に陥っているのが、
現状ではないでしょうか。

巷には認知症についての情報が溢れています。
製薬会社に聞くと、
沢山の資料が用意されています。
しかし、その多くは認知症の患者さんを病人として、
切り離し管理するためのマニュアルです。
物忘れが進行しつつある、
初期の認知症の方の、
不安を和らげるような情報は、
何処にも書かれてはいないのです。

「認知症が進むと大変だから早く薬を飲もう」
というスローガンは、
その薬が確実に進行を止める、
というものであれば、
患者さんの安心に繋がりますが、
飲んでも進行を少し遅らせるだけだ、
というのであれば、
むしろ薬を飲むことを強制された時点で、
患者さんにとっての不安を煽る結果に、
繋がりかねない危険を孕んでいます。

人間は誰でも管理されるのが嫌なのです。
他人に管理されることは、自尊心を傷付け、
自分が一人前でない、という思いに繋がり、
それが情動の不安定さに結び付いて、
却って認知症を悪化させる要因になるのです。
認知症には早期に対応した方が良い、
というのは医学的事実ではあっても、
それは必ずしも社会的事実ではないのです。

要はマニュアル的にアリセプト、
というのではなく、
患者さんの性格に合わせた、
もっと肌理の細かい対応が必要なのです。

効率のみを優先し、
適切に管理さえすれば人間性は二の次、
というような考え方が、
実際に認知症の治療の現場にある、
と言う事実を、
僕達は無視するべきではないのではないでしょうか?

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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コメント 7

くみちょう

こんにちは。
先生の記事を読んで色々勉強になりました。
ありがとうございます。
来年もよろしくお願いします。
余談ですが、アリセプトを処方する場合は‘アルツハイマー型’認知症として診断しなければいけないということを、医師の方なら大体ご存知なのでしょうか?
認知症という病名だけだと査定されると聞いたことがあって…
高いお薬なので、それだけで査定ってひどいなと思いました。
by くみちょう (2010-12-28 09:47) 

永遠の通りすがり

殆ど狼少年と化していて、すみません。
やろうと決めたのに出来ないことが多くて落ち込みます。
アモキサンはありませんが、年末年始はレキソタンで乗り切ろうと思います。

今年一年、匙を投げることなく診て頂いて、本当にありがとうございました。
by 永遠の通りすがり (2010-12-28 18:53) 

fujiki

くみちょうさんへ
コメントありがとうございます。
「アルツハイマー型認知症」でないと、
切られるケースがあると思います。
新薬で高い薬は、
切る対象として狙われているので、
少しでも病名が違えば、
冷酷無比に切られるようです。
来年もよろしくお願いします。
by fujiki (2010-12-29 11:21) 

fujiki

永遠の通りすがりさんへ
そんなことない。
生きていてくれて、
本当に良かった。
来年お待ちしています。
by fujiki (2010-12-29 11:22) 

ひすい

私の祖父は昨年99歳で亡くなりましたが、最後の数年は痴呆がだんだん進んでおりました。(アルツハイマーの診断はありません)
徘徊して、村長さんにおぶって送ってもらったこともありました。
すごい田舎なので、近所の者同士みんなが知り合いです。みなさん祖父の状態をよくわかってくださり、今は飼っていないのに「牛に草をやるから、鎌をかしてくれ」と言ってくると、「草はもうやったよ」などと上手く相手をしてくれたというエピソードも聞きました。
ただ、これは地域社会が機能している田舎だから成り立つことで…

それぞれの性格に合わせたきめ細かい対応って、どうしたら可能になるのでしょう?!

by ひすい (2011-01-05 20:38) 

fujiki

ひすいさんへ
コメントありがとうございます。
僕も子供の頃に、
近所のおじいさんが、
少しずつ衰えて、
おかしなことを言い、徘徊し、
それから元気がなくなって、
奥の部屋で終日横になり、
静かに亡くなっていったのを、
リアルに覚えています。
そのことで誰かが大きな迷惑を蒙った、
といったことはなかったような気がします。
「認知症が周囲の迷惑になり、
そのために莫大なコストが掛かる」
というのが当たり前のように思える今の社会は、
何かが根底から誤っているような気がします。
それは医療でも行政のマニュアルでも、
解消出来るものではないと思うのです。

「性格に合わせた肌理の細かい対応」
というのはずるい表現だと自分でも思います。
今回はそこまで突っ込んで書けなかったので、
逃げているのです。

その具体的な対応策については、
今後また記事にさせて下さい。
by fujiki (2011-01-05 22:13) 

karakoba

先生のこの記事から6年半たった今でも通常の対応は記述の通りと思います。早期発見といいますが、認知症の自覚があるからこそ怖がって断固検査、受診拒否の母と同居しています。いかにして母に、自分の衰えた状態を開き直って受け止めさせることができるかが目下課題です。誰でも年を取るんだから、などといってみますが、それでは不安は減らないでしょう。どうしたらよいものか、日々悩んでおります。
by karakoba (2017-09-04 17:28) 

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